2021.09.25(2-p.150)

『セックス・エデュケーション』シーズン3、僕はこのドラマの舞台となる学校に一種の開放的なユートピアを幻視していて、そこになにより救われていたので、新しい運営方針による管理教育の描写が辛すぎて何度も停止してしまう。自分でもびっくりするほど中学高校の息苦しさがフラッシュバックしてきて、過呼吸を起こしかけた。振り返ってみると、なぜ一〇代を生き延びられたのか全くわからない。いや、わからなくはない。当時はあの場所があんなにも最低だったなんて思いもしなかった。社会なんてこんなもの、という絶望があった。分別がついた今思うとあそこにいた大人たちのほとんどはクソだったし、もっと自分のことを大事にしてやれた。なにも知らない若さゆえに自分が虐げられていたことにも気がつけない、だからこそ僕は今こそ当時の過酷さを思い出しては腹の底から憤ることになる。全然終わった話じゃない。僕は絶対に一〇代の未熟さを美化したくない。あの頃僕はクソだったし、同じくらい周りもクソだった。だからこそ『セックス・エデュケーション』のようなフィクションに救われる、救われるのは過去の自分だ。過去の自分を自分で救ってあげられるような気持ちになる、というのが正確なところだろう。フィクションへのスタンス、社会も他の人工物と同じく一つの構築物として捉えること、ルールの決定権を個人の側に引き寄せること、なんでもはいうことをきかないこと。大人になってからの僕の価値観は、すべて学校で受けた傷への手当だったようにも思えてくる。僕は運よく高校を最後に自己の主体性を簒奪されるような苦痛からはすり抜けることができているけれど、その後にだって頭髪検査や制服のようなものはありふれているし、今だって僕には許容できる範囲であるというだけで、いつくもの抑圧の只中にあることに変わりはない。そんなことを思って何度も中断したけれど、結局一気見してしまって、今シーズンは最高傑作ではなかろうか。一番しんどかったが、この子達はもうここまで向き合える、という作り手のキャラクターへの信頼故のものというか、なんというか最後はやっぱり等しくみんなのことが大好きになるいいドラマで、僕はやっぱりルビーが好き。誰よりも高慢で自信に溢れていて優しくて意地が悪くて最高だった。自分で自分のことを大事にできる、励ますことのできる人たちがたくさん出てくる。それは単につねに自己を鼓舞して前向きでいるということではなくて、自分の弱さやみっともなさを認めることのできる、そうやって自分の見たくない面だってちゃんと見ることのできる人間として自分を信頼している、そういう態度であって、共通点をよすがに馴れ合うでもなければ、差異を殊更に美化するわけでもなく、ちゃんと衝突して傷付き合いながら対話を試みる姿が尊い。オエオエと声を出しながら見ていた。またシーズン1から見直したくなってきた。

奥さんはきょうお芝居を観てきて、たいへん面白かったらしい。よかったね、僕は一日中情緒を振り回されて眼精疲労と脱水症状で具合が悪くなって夕食をスキップして寝込んでいた。後で起き出して奥さんに何して遊ぶ? シエル先輩? クリスとスージー? と尋ねると、うーん、シエル先輩かなあとの応え。歯磨きなど済ませてさあ遊ぼうかというときに奥さんはハッと気がついたように日記、と言った。日記を書いてから遊ぼうねということで僕は一生懸命日記を書いている、すると奥さんは残念そうに、ああ、眠くなってきちゃった、と言って、隣でうとうとしだす。どうせ「奥さんは隣でスヤスヤしていた」とか書くんでしょ、でもね、そんな可愛いものではない、どちらかというと原稿の上がるのを待つ編集のようなものだからね、などと言いながら目をしょぼしょぼさせている。日記を読むまでは寝られない……、と嘘をつきながら、今日の公演の関連動画をYouTubeで眺めている。おそらくこれを読む頃には目が覚めてしまって、眠れないんじゃないだろうか。それは本人も薄々気がついていることなのだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。