2021.09.29(2-p.166)

朝起きると奥さんはしっかり熱が上がっている。三十八度近い。午前中は用事もないので在宅に切り替えて、きのう買いそびれたスポーツドリンクやアイスなどを買いに出かけた。奥さんのリクエストはパピコとダッツ。我が家ではハーゲンダッツのことをダッツと呼ぶがそういえばこれはよくある略称なのだろうか。そもそもダッツって何? 接尾語?

午後からは仕事に出かけ、それからも奥さんの熱は上がり続けたという。触覚が過敏になり、全身細かい切り傷があって薄めた塩水に漬けられたような気分だった。肌触りに引っ掛かりのあるものが触れると痛む。湿布を貼ると貼った箇所に感覚が集中するからすこしマシだが、剥がすときの激痛といったらなかった。柑橘系の香り以外、あらゆる臭いが強い刺激となって不快だった。聴覚も例外ではない。食器同士のぶつかる音やドアを閉める音など、些細な高音が脳内で幾度も反響して恐慌をきたしそうになる。布団に横臥していると余計に同居人の生活音が大きく響く。便器の蓋を上げてからドアを閉める癖がある。便器の蓋が貯水槽にカツンと当たる音がだからいつもドアを隔てないで直接廊下に響く。今日は殊更にそれがつらかった。視覚ももちろん過敏だ。寝室の照明が調光できるタイプで助かった、ギリギリまで光量を絞る。熱は三十九度まであがった。鎮痛剤は三時間おきにしか服んではいけない。効き始めると小一時間眠る。薬が切れるとまた目が覚める。薬が切れてから次の薬が服めるようになるまでの三十分ほどの空白が一番辛い。朦朧とした頭で台所に向かう。野菜室からよく冷えたトマトを取り出してかじる。あんまり美味しくてむしゃむしゃ食べる。赤子の肉をしゃぶる山姥みたいに見えるだろうな、とぼんやり思う。Twitterを開くと柿内正午は「本だって作れるんだから賞も自作しちゃえばいいんじゃないか」「みんな自分の賞を作って好きな本に勝手にあげていこう!」などと呟いて、岸波さんと楽しそうにやりとりしてる。本好きの友達同士でイチャイチャしてないではやく帰ってきて欲しい。今日服んでいい鎮痛剤の上限を迎えて、あとは合法的なモルヒネである夫を吸うしかない。突然部屋全体が静かにうなるような音がして、天井の照明が静かに弧を描くように揺れている。地震だ、いよいよ心細くなって、奥さんはめそめそしただろうか。

地震かな、と根井さんは呟いたが、大きなリュックを背負って腕組みをしながらもう店内を三周もしている男はその声にはとくに反応しないまま、棚の本を一冊も見逃すまいと舐めるように検分していた。男、柿内は自分が本名において妻に帰宅を心待ちにされていることも知らないで、退勤後早稲田のNENOi に岸波龍の展示を見にきていたのだ。呑気なものである。根井さんにすすめられるままに『本は読めないものだから心配するな』と、あとは面出しされていた真鶴出版の『日常』を買って、コーヒーまで頼んでその場で啜りながら買ったばかりの本を読んでいく。いいから早く帰れ! 最愛の人がお前の帰りを待っているぞ! この日記を書いている時点の僕は叫ぶ。柿内はリュックから『現代思想からの動物論』を読み出してた。それに気がついた根井さんとジョン・ロックの所有論についてなど喋り出す。帰れ!

そうこうするうちに岸波さんがやってくる。展示中の絵の追加にやってきたのだ。柿内は受賞の喜びをにやにや伝え、岸波さんは改めて祝意を述べてくれる。二人でドリンクを注文し、お互いの近況などを楽しく語らう。書きながら僕は思っている、こいつ、いい加減にしろよ、と。閉店の時間になりお二人と別れ、カフェ・ゴトーでケーキを買って帰る。副反応快気祝いにゴトーのケーキだ、と勝手にうきうきしているが電車の中で「合法モルヒネが帰ってこない」という奥さんの呟きを見て真っ青になった。ケーキとかじゃない、この身の一刻も早い帰宅が望まれていたのだ。投稿時間は25分前。家に着くのはここからさらに一時間はかかる。柿内はようやく己の愚かさに気がつく。

帰宅をしてシャワーを浴びて奥さんの一日の健闘を労う。夕食は食べられそうで、一緒に食べる。夫は食器を洗ってくれるのはありがたいのだがガチャガチャと音を立てるので今日は特に辛い。奥さんは先に寝室に引っ込む。洗い終えた夫が寝室に顔を出し、このまま日記を書いてくるか、そばにいて欲しいか、と問う。日記、という返事だったので夫は日記を書き出す。

岸波賞の創設者であり選考委員でもある岸波さんから選評をいただき、嬉しい。しかし個人がでっちあげた賞でも貰うとこんなに嬉しいのだから、ほんとうに皆どんどんみうらじゅんみたいなノリで個人賞をでっちあげて、どんどんいいと思うものに授与して仕舞えばいいと思う。これ、思っていた以上にやる方も楽しいし、貰う方も嬉しい気がする。しかし「けっして柿内さんの文章は万人受けする文章ではない気がするし、柿内語録的な独特の単語が突如挟まったりするし、文学っぽくて文学っぽくないとか変なことをやってるのは間違いない」というところがいい。これってつまり巷で話題の軽薄体というやつではないだろうか。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。