ここ数日は夕書房の『したてやのサーカス』と新曜社の『〈責任〉の生成』を行ったりきたりしていて、今晩『〈責任〉の生成』を読み終えた。とてもいい本。『中動態の世界』の興奮を思い出す。スピノザの自由論は僕はかなりしっくりきていて、生活におけるひとつの指針というか、自分の体調や周りとの関係を考えるときの骨子になっている感じが今でもある。新曜社の本は多分初めてで、折り込み広告にあった『「自分カメラ」の日本語 「観客カメラ」の英語』という本がすごく面白そうだ。文法というものを掘り下げることで自己や世界の捉え方を相対化していく、というのは、それこそ中動態の探究と通じるところがありそうだった。
夕書房の本は四冊くらい持っていて、『失われたモノを求めて』に続いてこれも夕書房の通販で買った。前回も感激したのだけど、ちゃんと宛名付きでびっしりと手書きのメッセージの書かれたポストカードが同封されてくる。通販から購入する全員にこうして手で書いた文字を届けるというのはちょっとすごいことだ。丁寧で、きちっとした気質を感じさせる文字に触れると、手書きっていいな、と思う。しかしこの手仕事を、どれだけこなす必要があるのだろう。宛名の部分だけ空欄にしておいて、事前に決められた文言を書き溜めておくのだろうか、それにしたって書く分量は変わらないのだから相当な労力だ。すごいなあ、と思うし、こういう仕事をする人の編んだ本はいい本に違いない、と嬉しくなる。『したてやのサーカス』は造本がすごくかわいくて、懐かしい。奥さんは『さびしい王様』だ! と嬉しそうにはしゃいだ。本棚にあるとっておきの児童書とおなじ造りだ。
仕立て屋のサーカスを初めて観たのはいつだったか、友人に誘われて奥さんもすでに奥さんだったかまだ奥さんだったかはわからないが一緒に観に行って、ということは15年か16年ごろだろう。VACANT で観た。あまりのよさに興奮冷めやらず、奥さんと二人ですごいものみた! ときゃいきゃいした。二人ともお芝居を作っていたから、僕たちの作りたい空間ってこういうものだったよね、と話したりもした。僕は13年ごろに、線路沿いのギャラリーでぬいぐるみ遊びを全力でするようなお芝居を上演した後、あたたかいシチューをふるまって演者も観客も一緒になって食べる、みたいなことをやっていた。そのころ自分たちが技術や資本の限られた中でミニマルにやっていたことを、サーカスのスケールにまで拡張するような集団がいるんだ、とすごく嬉しくなったのを覚えている。いまでも仕立て屋のサーカスを観るたびにお芝居がやりたくなる。僕にとってお芝居とは空間の変調であり、あってほしい世界の小さな具現化でもあるんだということを、いつでも思い出させてくれる。最近は書いてばかりだけど、文字だけでないこと、一晩限りでなくなってしまうようなことも、またやりたいなと久しぶりに思っている。
いつだかの公演で買ったCINEMA dub MONKS の「2666」というアルバムを聴き返したくなって、でもCD はほとんど聴かなくなっているからどこにしまってあるのかもうわからなかった。同じころ、失踪のすすめ、というタイトルのCD も買ったはずだ。名前の通り、ふらっと失踪されてしまった。