おとといの帰りの電車の頃から『サンセット・パーク』を始めて、きょう読み終えた。奥さんがテレビ会議をしている間、部屋に引っ込んで読んでいた。それからお昼にあんかけうどんを食べて、最後の五〇ページほど、大事に読もうと静かな気持ちでページを手繰っていると、奥さんがこれ見て、と面白いツイートを見せてくれたり、あれこれと話しかけてくれる。もちろん最愛の人に話しかけられることは喜びであるし、僕は普段本を読んでいる最中でも、二割くらいの出力しか避けないが、奥さんとの会話を続けることができる。けれどもポール・オースターは、とくに冬に読むポール・オースターは、孤独な気持ちで一〇〇パーセントを傾けて読むものだった。それでいつも以上に素っ気なく対応してしまって、奥さんは、あっそ、という感じで向こうに行ってしまった。読書に必要な静けさと、人と共にある穏やかさとは、だいたいは両立しうるが、それが孤独を巡るものであった場合、簡単に混乱をきたす。暖かい湯船に入りながら頭から氷水を浴び続けるような感じだ。
ともかく奥さんは向こうに行ってしまったので、傷つくことを、傷と向き合うことを、肯定しないまでも不可避なものとしてしんしんと描き続ける見事な反復の帰結を、静かに見届けた。人は傷つかずに生きていくことはできない。大なり小なり、日々傷を負い、その傷と共に生きていくしかない。『〈責任〉の生成』に続いて読む本が、この小説で良かったと思う。『ムーン・パレス』はそれこそ、友達もいなければ恋人もいない、だからこそ人肌によって大丈夫になってしまうものの多さを思い知っていたころに読んだ。オースターも僕も今より若かった。だから、『サンセット・パーク』のモリスの傷に思いが至らない。誰もが傷から立ち直れるわけじゃない。誰もが損なわれたものを回復できるわけじゃない。そういうことに、歳を取れば取るだけ、鈍感になっていくものだと信じていたが、逆だった。どんどん他人の痛みが辛くなる。しかしオースターは、じいちゃんになってもまだセックスのこと考えてて、すごいな、と思う。
横浜のシェアハウスに住んでいた頃のことも思い出した。わかります、柿内さんは、いい人なんだと思います、そう言って、仕事帰りの深夜二時ごろまで、高橋源一郎の話をした彼は、一ヶ月くらいであの家を去ってしまって、もう名前も覚えていない。ストレスで毎晩のように蕁麻疹が出るようになって、一人で暮らすのはもう無理だと思って、すがるように引っ越したあの家には、けっきょく一年もいなかったのだっけ、とにかく僕には回復のための一時停止のような時間で、いまでもかけがえがない。あの家で一緒に過ごした人たちのことを、たぶん僕はみんなが思っている以上に大きなものとして感じている。入社して半年であっという間に損なわれ始めた自尊心や他人への思いやりを、あの家でぼけーっと過ごすことで、手遅れになる前に取り戻せたというような思いがある。大袈裟だろうか、たぶんそうだろう。放っておいても大丈夫になったかもしれない。でも、今こうして思い出しても、傷がそこまで疼かないのは、やはりまだ傷が浅いうちに他人を求め、応えてもらうことが出来たからだろう。
あのころも今も、他人といつでもうまくやっていけてるわけじゃない。僕の座るテーブルの斜向かいにある鏡台で、自分の顔のなにかを点検する奥さんの横顔に拗ねたような感じを受け取ってしまうのは、僕の方がさっきのいっとき、オースターを奥さんより優先したという自覚があるからだ。鏡越しに目があったので、試しにウインクしてみる。奥さんも上手に片目を瞑って返してくれる。それですこし安心する。他人と暮らすということは、気遣いや取り越し苦労の連続だ。けれどもそうした面倒は、自分で自分を嫌いにならない程度にいい人間でいるためには、不可欠なものなのだ。
面倒や傷を避けて通ることはできないし、避け続けることは、それはそれで多くのものを損なうことになる。