商業施設の出入口が絞り込まれ、指定された限られた扉のほかはすべてかたく閉ざされているのを見て、春ごろは、換気が肝心そうなのに、なんでわざわざ密閉しちゃうんだろう、と思っていた。どこに入るにもマスクと検温が求められることが当たり前に感じられるようになってはじめて、風通しをよくすることよりも、異物に入り込んで欲しくない、ということのほうが優先されたのだな、とわかる。
衛生観念が破綻しているもの、理性が感じられないもの、健常かどうかわからないもの。それらに対して、僕も平気な顔して排外的になりかけている。マスクの有無というのは良くも悪くもその人のスタンスをわかりやすく表明してしまう。マスクはイデオロギーではなく実際的な対処だ、というのもわかる。それでも、「危機」だの「衛生」だのの言葉が、どれだけ簡単に全体主義的状況を人に受け入れさせてしまうのかを、マスクをしていないで外を出歩く人たちへの反応を見るたびに痛感させられてぞっとする。公共の複数性を言祝ぐのは、思いのほか難しい。難しいと思うが、それよりも、それぞれにそれぞれの塩梅での危機意識がありうるのに、すべてを高い水準に画一化しようという欲望の怖さを思う。
虚な目でサーモグラフィーの機械を眺めながら、そんなことをぼやぼやと考えていた。
思考はこういう悲観的で主語の大きめの話であろうとも、肉体を虚無仕事に拘束された人間に許された最後の娯楽だった。