え、九時半。そう言う奥さんの声で目を覚まして慌てて家を出る。春以来自分で切っていたが、ON READING でのイベントを口実に美容院に復帰した。不揃いな前髪をうまい具合に活かしつつ可愛く仕上げてくれて、これまで通りとはいかないかもだけどまた失敗したらきてくださいねー、とにこやかに送り出された。ここまではっきりとその頭失敗してるよと言ってもらえると楽しくなる。そしてそんな失敗も「乙」としていい感じに仕立てていける技術にやはりプロはプロだなあと感じいる。
朝を抜いてしまったぶん、昼前にグラニースミスでアップルパイを食べる。すると楽しみにしていたハブモアのカレーのお腹はもう残っていないことに気が付く。ABC で本を見る。オールユアーズの本を買うつもりだった。木村さんがいらっしゃって、にこにこと声をかけてくださる。はじめまして、いつもセットアップ着てます、とご挨拶して、本を手に取り、そのまま一回店内をぐるりと巡る。毎回のことだが、ここにくるとノートに手で何かを書いたり、料理をしたり、絵を描いたりしたくなる。カタカナ語を多用し、デザインや建築について語りたくなる。そういうスノビズムを刺激してくるから、ABC は好きだった。教養人を気取ることは、全否定はしないでいいというか、教養が見栄として機能するという感覚は、知性への信頼の一種ではありうるというか、知的であることを軽視するよりはずっといい。会計後、木村さんにサインをいただく。木村さんは穏やかな声で、深くキラキラした目をしていた。
結局胃は動き出さず、ハブモアは諦めて銀座線に乗り込んだ。
浅草のフグレンは満員で、諦めて適当な場所を見繕っていると、入れ違いで松井さんがフグレンに席を取れたとのことで引き返す。松井さんはやはり西淑さんの亀をあしらった『プルーストを読む生活』スウェットを着てきていて、もちろん僕も着ていたので、ペアルックだった。やはりペアルックでしたね。いや、そうなるだろうなあとはわかっていたんですが、着てきますよね。そうニヤニヤしながら、できたての『プルーストを読む生活』をいただく。五冊単位の包みの存在感にまず笑い、僕はもうたくさん開封していますから、どうぞ開封の儀を、と促されるままに封を開くとそこには本があった! そしてそれはめちゃくちゃ格好いい本だった! 知っていたが、これは、欲しい! もらえるけど、買っちゃいそう! そういう本だった!
コーヒーを飲みつつ、いや、これは、いい本ですね、うわ、嬉しいなあ、嬉しい……、とうわ言のように繰り返す妖怪になっていた。途中で奥さんも合流して、開くなり文字がある! と言った。文フリの時は束見本を開いては、あっ白、と拍子抜けする人をたくさん見たからだった。僕は気を抜くと本を撫でたり見惚れたりしていて、松井さんは隣で静かに見守ってくれた。もうどうぞ、好きなだけ眺めてください、僕はそれを眺めます、と嬉しそうにする松井さんと本を囲んで写真を撮ってもらった。奥さんが撮ってくれた写真で見るとペアルックなだけでなく、眼鏡まで似ていて、同じような笑顔で映る二人はお笑いコンビか何かのようだった。
引き続き嬉しい……、と言いつつ、松井さんと別れ、奥さんと二人でジントニックとホットワインを追加注文して、祝杯をあげた。僕は嬉しい……、と言いながらツイートを行い、奥さんは「改めて見るとやっぱりなかなかの厚みで、これを家で在庫抱えられたら普通に困るな……と思ったんだけど、いま現在松井さんの家の廊下をこれが占拠していると思うと、あなたの本に肩入れしてくれる人がいることを具体的に感じる」と言った。その通りだ。めちゃくちゃに売れて欲しい。しかし、めちゃくちゃに売れるとは? 宇垣美里さんに褒めてもらう、とかだろうか。
僕が三歳くらいの時、クリスマスプレゼントを開けた天使のような僕が天使のようなハイトーンボイスで、わあっ、と声を上げて、そのままサンタさんがいるであろうお空に向かって、ありがとぉ、と言う動画が、いつだか実家から送られてきて、それを見て僕も奥さんもなにこの子めっちゃ可愛いな、と言った。奥さんは無邪気に一〇〇パーセントで喜ぶ僕の様子に幼い天使の面影を見た。松井さんと二人の時、本の包みを開けながら、こんなにわくわくするのは子供の頃のクリスマス以来かも、と僕が呟いていたことを、奥さんはまだ知らない。これを読む時に知る。