昨日ゆっくり休んで気がついてしまったが、この数ヶ月の僕はかなり危うい。仕事したくない、とか、働きたくない、ではなく、ただ無なのだ。なにもできない、という否定の感覚すらなく、何もない。なんの脳波の小波もなく、ただただ動かない。動けない、というほど動きたいという意志もなく、かといって動かないという決心もない。ただ動作がない。そういう状態だった。それは賃労働者としてだけではなく、なんか読んだり書いたりする個人としてもそうで、あまり本を読んでいないし、本を作って売ることも、当人にとって完成した本というはすでに完了した行為であるから、惰性で動き続けているだけで、いままさに書いているものというのはない。だから本を売るために元気よくSNSで活動をしている時というのは、はたからみると活動的かもしれないが本人の感覚としては停滞で、まったくなにものも産み出している感じがない。あらゆる動機が消失し、あらゆる動作が始まらず、あらゆる情動が停止している。これは、かなり危機なのではないか。
そんなことを今日、考えた。奥さんと録音も含めて五時間くらいお喋りしながらだんだんと回復してきた感覚でもって考えた。おしゃべりは、大事だ。なにも話すことがないと思っていても、はじめの一音はかならずなにかしらを呼び起こす。ふたりでたくさんおしゃべりができて、僕は久しぶりにこの二人は素敵だな、という気持ちを持った。おしゃべりをやめてしまうと、あんまり素敵でないことも多い。僕たちはしゃべっていたほうがいい。
今日の録音では「文字を文字読みだけが読んでいた時代には通用していた最低限の読解力や文章力を要請する態度が、なんだかんだテキストに偏重したインターネットが普及したことによって本来的に文字読みでない人たちまで文字を使うようになった結果失効してしまった。というか、文字コミュニティの外の人まで簡便に文字を受け取り発信できるようになったために、多くの人は言葉や文字という道具をちゃんと使うことができないということが明らかになってきているだけで、いつの時代も文字読みでない人たちの世界認識とはこんなもんで、単に表に出てこなかっただけなのではないか」というようなことを話したくなって、話し損ねた感じがあるのでここに書いておきます。
そもそも言語というものを完璧な伝達ツールだと考える方が間違いで、「文字読み」が他の人より文字を使って伝えようとしていることを精確にとらえているという考えにも欺瞞がある。「文字読み」でない人が文字を使うことより、「文字読み」のこの欺瞞の方が問題としてはタチが悪い気もする。文字というのは、誰もろくに読めてなんかいないのだ。あー、文章読めない人ってかなりいるよねー、と溜飲を下げているあなたこそ読めていないことを、あるいは読みたいようにしか読んでいないことを自覚するべきだ。(ブーメラン!) ぐへえ。
奥さんのお誕生日DAY2。お昼に軽くお寿司を食べて、壁にまぐろの部位の説明のための解剖図があって、そこにも動きを止めたら酸素を取り込めなくなるから動き続けるしかないんだと書いてあった。
銀座をぶらつく。歩行者天国ってあらためて大袈裟な名前だと思う。天国の基準低すぎない? 雨の銀座の天国は人もまばらで、ゾンビ映画みたいな終末感があった。わくわくする。ポーラの展示をひやかして、椿屋珈琲の本店に行って、VAPE を買ってみて、夜は銀座三越のラデュレでアフタヌーンティー。窓際の和光と三越の交差点を見下ろすいい席で、赤になってから渡り出す歩行者たちを眺めながらゆっくりとすてきなものたちを味わう。どんなレジャーよりも、奥さんとおしゃべりするのがいちばん楽しいし、嬉しいな、ということを思い出すような一日で、奥さんは、人生の話とかしちゃった、アラサーの誕生日っぽすぎる、と苦笑いを浮かべていた。和光の時計が二〇時を鳴らす。僕はいつになったら大人になるんだろうな、とおそろしく思う。
日記を書いていると奥さんは格好良く煙を吐いて見せて、芋虫の気持ちになる、と言った。アリスの話だ。