これまで違法メールや詐欺ショートメッセージとは無縁の生活だったのだが、今年に入って妙に件数が増えた。どこかから番号やアドレスが漏れたのだろう。雲であろうが回路であろうが、なにかしらに情報を託すということは、そこから盗み見られたり掠め取られたりする可能性をコントロールできないということで、ある程度は仕方のないことだろう。漏れてしまうときは漏れる。逃走線というのはなにもこちらだけが引くものではない。別の主体が僕の側に引き、何かまずいものを漏れ出させることだってある。
昨日のおしゃべりで、僕は最近本を買ってばかりで本を読んでいないのが不健康の原因ではないかと指摘があった。それはそうかもしれない、と新しい本を読み出す。
フリオがエミリアについた最初の嘘は、マルセル・プルーストを読んだことがあるというものだった。読んだ本のことで嘘をつくことはあまりなかったが、あの二度目の夜、何かが始まりつつあることが、その何かがどれだけの期間続くにせよ大切なものになることが二人にわかったあの夜、フリオはくつろいだ調子の声で、ああ、プルーストは読んだことがある、十七歳の夏、キンテーロで、と言った。当時はもう誰もキンテーロで夏を過ごしたりはせず、かつてエル・ドゥラスノのビーチで知り合ったフリオの両親ですらキンテーロには行かなくなっていた。美しいが今ではルンペンたちが押しよせるあの避暑地で、十七歳のフリオは『失われた時を求めて』を腰を据えて読むため、祖父母の家を借りた。もちろんそれは嘘だ。たしかに彼は、あの夏キンテーロに行き、たくさん本を読んだが、読んだのはジャック・ケルアック、ハインリヒ・ベル、ウラジーミル・ナボコフ、トルーマン・カポーティ、そしてエンリケ・リンであって、マルセル・プルーストではない。
アレハンドロ・サンブラ『盆栽/木々の私生活』松本健二訳(白水社エクス・リブリス) p.22-23
その同じ夜、エミリアはフリオに初めての嘘をつき、その嘘もまた、マルセル・プルーストを読んだことがあるというものだった。最初は相槌を打つだけだった。わたしもプルーストは読んだわ。だがそのあと長い沈黙が訪れ、それは居心地の悪い沈黙ではなく期待のこもった沈黙だったので、エミリアは話を続けざるをえなくなった。つい去年のことよ、五か月くらいかかった、だってほら、大学の授業で忙しくしてたから。それでも全七巻を読破してみようと思って、それがわたしの読者人生でいちばん大切な数か月になったの。
彼女はその表現、「わたしの読者人生」という表現を用い、あれは間違いなくわたしの読者人生でいちばん大切な数か月になった、と言った。
にこにこする。きっと大事な本になると直感し、とっておいた本だ。はじまりからとてもよくって、すてきだった。僕はもう、マルセル・プルーストを読んだことがあると嘘をつくことができない。僕はくつろいだ調子の声で、ああ、プルーストは読んだことがある、二十八歳の年、東京で、と言った。嘘かもしれない。二十九歳のときか? もうわからない。とにかくそれはわたしの読者人生でいちばん大切な数か月になったかというと、どうだろうか、いちばんとかはわからないな。
それから『tattva』と『わたしの身体はままならない』をつまみ読みして、たしかに本を読むと元気になるようだった。
それからメールのチェック。
ポイエティークRADIOの相対的(不)人気コンテンツ、『雑談 OF THE DEAD』が待望(本当)の書籍化。
ラジオ上で不定期で行われたゾンビ映画についての対談を完全収録。ゾンビという人を選ぶコンテンツ、そして、単発週刊ラジオという媒体の特性上、回数を増すごとに再生数は減っていったらしいのですが、その面白さはますばかり。
店主はゾンビ映画を全く見ない(見れない)タイプですが、話を聞くのは本当に面白かった。それは映画というコンテンツ、ゾンビの歴史的背景、そして現代社会への接続、あらゆる状況を飲み込んで雑多に語った対談、活字だともっと楽しめる雰囲気すらあります。
ご期待ください。
https://habookstore.shop/items/62639d8b88dc653f1e324572
松井さんのコメントはいつも嬉しい。今回も惜しみのない愛を感じた。すごく、見てくれているな、と感じる。僕はこういった贈りもののようなコメント欲しさに本を作り続けている。張り切って入稿。当初の予定の倍の部数で発注を確定。売ってくれるお店があるというのは、一店一店のひとりひとりのすごさだ。そうしたひとりひとりがいなければありえないことで、人はこういうときありがたいと思うのだし、じっさいほとんどありえないことが起きているような感覚になる。
こうして他者の言葉を引く日の日記の方が僕は僕の日記だと感じる。僕自身はべつになんでもないというか、読んだり聴いたりもらったりした言葉の受け売りで僕は生きている。人は皆そうで、オリジナルの言語と思想を発明しているわけではなく、あらゆる関係性の網目として、あるいはあらゆる受け売りのブレンドとしてあるのが個人というものだ。だから自分の形をはっきりとさせるのは、いつだって身の回りの他者であり、他者の言葉であり、他者としての言葉だ。
『tattva』の追悼記事でヴァージル・アブローという人を知る。人を制作に駆り立てる言葉を吐く人だ。とても格好いいなと思う。そして何かしら作っていたいなと改めて思う。「零貨店アカミミ」という屋号は、ZINE だけでなく、ひろく雑多なモノの制作の場としていきたいなと考えている。とにかくなんでもやってみる。なんでも作ってみる。自分の手で作ってみるというのは、自分の手を動かすことだけを意味しない。本なんてまさにそうで、印刷所に作ってもらうわけだ。作るというのは、発注するということでもある。人にお願いする方法を覚えれば、なんだって作れてしまうということだ。これはほんとうにすごいことだ。僕はなにか思いついたことがあって、手元に資金があれば、予算に見合った発注のルートを探出して洋服を作ることもできれば、文房具を作ることもできれば、なんだって作れてしまう。とにかくやってみるというのは、とにかく人に作ってもらう、ということだったりする。
ドンブラザーズを昨晩から見ているのだけど、人のあらゆる勤労意欲が「悪」の誘因なのがいい。真面目に働きすぎると、ナンセンスな暴走につながる。この調子でどんどんまじめに働かないことを持ち上げてほしいものだと思うが、主人公側に退治された場合とくだん労働環境の改善されていない現場に戻されてしまうというのが気がかりだ。六話くらいまで視聴者も登場人物も状況をよく飲み込めないままで、それなのになんのストレスもなしに見続けられてしまう。演出の仕事がすごい。