外出にマスクが必要になってから、買い物が好きになった。それまで買い物とは「お金が減る」という意味だった。いまでは、「お金を入力すると予期した通りの出力が返ってくる」という意味だ。モノを手に取って投げればどこかへ行く。自分の行為が外界に作用するという手応え。世界との関係を獲得していく赤ん坊のプリミティブな面白さ。いまではそれは買い物という行為にかろうじて谺している。
世界、社会、会社、家族、友人なんでもいい、とにかくあらゆる他者は、自分のために存在しているわけではないという自覚と、それでもそうした他者から受け取れるものは遠慮なくいただくという態度は、両立しうる。卑屈でも傲慢でもない塩梅で。しかしどこからが卑屈で、どこからが傲慢なのだろう? 他者に踏み込み、なにかを獲得すること。それはたしかに暴力なのだが、潔癖に他者を不可触のものとするのも危うい。利己心を否定し過ぎてはいけない。一方的な利用というのは幻想で、誰もが多かれ少なかれお互いさまの関係で、お互いを盗みあっている。より小さな側が、大きな側に遠慮してしまうことが多いが、より小さな側こそ図太く盗んだほうがいい。世は、とにかく小さい方から大きい方へという搾取の構造がありがちなのだから。
しかし、ここまで論じてきたのは、あくまで「ケアする人が、ケアされる人の可能性を信じられるかどうか」という意味での信頼であった。つまり、強くより自由度が高い者の、弱くより自由度が低い者に対する信頼である。しかし当然ながらその逆方向の信頼もある。つまり、ケアされる人の、ケアする人に対する信頼だ。
伊藤亜紗「信頼の風土」『わたしの身体はままならない』(河出書房新社) p.162
この「される側」から「する側」への信頼は、「する側」から「される側」への信頼とは、性質が異なっている。なぜならケアされる側には、「ケアしてもらわないと生きていけない」という選択の余地のなさ、あるいは選択肢の少なさがあるからだ。「信じない」というオプションを選びにくい状況で、相手を信頼しなければならない場合がある。これは「する側」から「される側」への信頼にはない要因である。
雇われている側が会社を利用し倒すという態度は、会社が従業員を使い潰すのとは質が違う。読者が本を好き勝手に利用するというのもそうだろう。不均衡を撹乱すること。けれども、じっさいに目の前にいる個人は、同じくらいの質量を持った一個の個人に過ぎないということを見失って過度に構造的不正をその個人に託してしまうと、またそれはそれで一方的な略奪めいてくる。この歳になってそれなりのポジションで仕事をしていると、かつての上司の不安や弱さが理解できてしまうぶん色々な憤りを持ちづらくなってしまったと気がついたとき、ぞっとした。いつでも弱い側、より困っている側に立つというのは、ほんとうに難しいことなのだ。