はじめに ──町でいちばんの素人宣言

『会社員の哲学 増補版』の序文を公開します。

自宅で静かに考える時間が増え、なにかしら手を動かしたいとうずうずしやすいパンデミック下、一介のケチな会社員として、賃労働やそれをベースとして組み立てられた資本主義という制度や、資本主義経済の論理をそのまま唯一の価値観のようにしてしまっている政治なんかについて、自分なりの考えを一冊の本の形にまとめたいという思いがふとやってきた。

無名で、目立たない凡庸な賃労働者の思想。そういう本がなぜ少ないかって、無名であるからだし、凡庸であるからだ。そもそも著者が見出されないし、見出せたとしても売れはしないだろう。つまり、個人が勝手に作って、勝手に売るしかないのだ。僕が読みたいから僕が作る。無名で、凡庸な会社員の思想書を。

僕は労働や経済や政治が、つねに管理者の理論、経営者の理論、使用者の理論でしか語られないことが不満で、自分をサムライに例えるサラリーマンの寒さに近いものをずっと感じていて、いやお前は何も持たない側じゃん、使われる側じゃん、という気持ちがずっとある。持たざる側の論理や思想の構築という意味で満足できた本は僕は『日常的実践のポイエティーク』と『飯場へ』くらいだった。ほかにもいい本があったら教えてください。管理される側の、内部でごまかしつつ楽しくやっていくための理論についての本がなかなか見つからないのは、会社勤めの人は経営者にでもならない限りなかなか本を書かないからだ。せっかく僕は現役の会社員で、なおかつこうして読んだり書いたりするのが好きなのだから、管理される側の思想というものを、無責任な匿名の素人としてブリコラージュしてみてもいいんじゃないかと思いついたのだ。

ここに書かれようとしている本は、会社という特殊な空間に単身乗り込んでそのただなかから書く民族誌でもあり、日本のサラリーマンという病的かつ凡庸な性質を持つ一個人の当事者研究でもあり、管理される側から見返す支配や統治の論理書でもある。とはいえ特に専門性を持つわけでも、お行儀の良い文章術を修めたわけでもない一個人が勝手に始める与太話だ。本の形をしているからってあまり真剣に取り合いすぎてもいけないと予め忠告しておく。ここで開示される知見は、知見と呼ぶのもおこがましい偏りや勘違いも多分に含まれた素人くさいものであるだろう。

僕たち会社員は黙って管理されてるわけじゃないし、わかりやすく搾取されているわけでもなくなってきている。AI に取って代わられるのを待つ社会の歯車でもないし、右に倣えしかできない「衆愚」でもない。小狡くて、理性的で、お茶目なところもある、ほかにもいろんな特性をもった、れっきとした個人たちだ。なのでうっかり「僕たち」なんて書いたけれども僕は会社員を代表する気はさらさらない。いまインターネット上で声を上げ取り上げられやすいのは、とにかくすでにある程度のフォロワーを獲得したひとたちだ。限られたプラットフォーム上で動員数を競うようなあり方は、それはそれでいいこともあるのだけど、結局は数の論理に回収されてしまうのか、というような虚しさもなくはない。自覚しているにせよいないにせよある程度の既得権益にお世話になってる位置にいて、起業できるほどの度胸も技能もなければ、ツイッターでバズれるほどの面白さや特徴もないような、僕のような会社員たちが、どんな環境にさらされていて、どんな「思想」をもっているのか、どのプラットフォームをディグっても実はあんまり見えてこない。なぜならそうしたありふれた普通の人たちの思考や行動はだいたいにおいて言語化の手前でつまずくほどに混乱していたり、矛盾が多かったりして、140文字以内に端的にまとめられるようなものでも、ずっと過去まで遡ってなお論理的一貫性が認められるようなものでもないからだ。バズとは口当たりのいい「わかった気になれる」ものであって、どこにでもあるからこそ分かりにくいままそこにある生活者の感覚は不可視のままであることが多い。こうした見えていない人たちに注目が集まるとしても、それは与党を盲信的に支持していたり、トランプを大統領にしたり、五輪を素朴に楽しめちゃうような「衆愚」として仮想敵にされるときくらいしかない。でも、本当にそうなんだろうか。そんなのってほとんど欠席裁判じゃないか。かつて、そしてこんな状況下ですら、満員電車でろくでもない週刊誌の中吊りを見上げている冴えないサラリーマンの全員が全員、同じようなことを考えているわけがない。皆それぞれに、自分なりの理屈や倫理のもとできる限り理性的に生活している。そのはずなのだけど、なかなかそうした人たちの声は聞こえてこない。僕はそういう「ふつう」の人たちの声が聞きたい。きっと「ふつう」じゃないから。表舞台に出てこない人たちが、「表舞台に出てこない」というたった一つの共通点だけでおおざっぱに愚かな多数派として括られるのはだいぶ変だ。よく考えてみてほしい。僕たちの身の回りにいる人たちの、なんと多くの人が「普通の人はそうかもしれないけど」などという手垢にまみれた言葉を使い、自分の「ふつうでなさ」をすこし誇らしげに開示するかを。おそらく、「ふつう」などというものはどこにも存在しない。このZINE自体は、僕個人のかなり偏った思想の開示にしかならないけれど、これを真似していろんな人が自らの実は決して凡庸ではない「当たり前」について、いちいち言語化してみるきっかけになればいいと思っている。

僕は会社員といっても、主語がでかくて華やかなことを理路整然と述べられるコンサルタントでも、抜群の営業実績をもつ敏腕販売員でもなく、やりがいを感じてクリエイティビティを爆発させるような職種なわけでもない。本当に、仕事においてはなんのコンテンツ力も発信力もない会社員だ。また、過酷な管理体制のなか分刻みで作業をこなさざるをえないような環境にあるわけでも、理不尽なハラスメントに苦しめられたり毎日違法な過重労働を強いられているわけでもない。そういう意味では、現代日本においてはむしろ特権的なホワイトカラーの正社員でもある。毎日仕事中に思っているのは「はやく就業時間おわんないかな」しかない。そして、そういう人が大半なんだとも思っている。僕は幸か不幸か図々しいので、こんな僕には何にもない、とかそういうことは思わないし、思う必要もない。生産効率弱小の斜陽国家の一サラリーマンが、なぜこうも堂々としていられるのかということも、本論では書いていくつもりだ。今はただ取り急ぎ、誰一人、堂々としちゃいけない人なんかいない、という当たり前のことと、仕事だけが自己実現の手段ではないことを指摘するにとどめておく。

僕がこの本を書いていく中で考えたいのは、なぜこうもたかだか賃労働にすぎない仕事ですら「やりがい」だとか自己実現だとかというものと結びつけて語られてしまうのか、なぜ就職活動はああもつらいのか、なぜ会社の飲み会では誰もが皆経営者目線でものを語るのか、人が人をマネジメント=管理するってどういうことだよ、とか、そういうことだ。多くの会社員が会社という環境の片隅でやり過ごすなかで培っていくのは、以上のような問いを持たないで済ませてしまえる不思議な心性であろう。そしてその心性は、会社の中だけで完結するものでなく、政治を語る時の僕らにも適用されうるだろう。僕らは不思議なことに、管理する側の理屈で政治を考えてしまいがちではないか、会社のことを、ちゃんと雇われる側から語ることができれば、政治についてももっとうまく語れるはず、という予感がある。

この本はなにかしらの答えを提示するものでは決してない。現代資本主義社会においてある程度不自由のない生活を送れてしまっている特権的な会社員の思索の道行を記録したものであり、この本の結論として提示されるものは結局「要は個人の心の持ちようが大事」という決して公平でも安楽でもない現状を黙認する空疎な精神論と大差がないかもしれない。僕に自身の特権への無自覚な居座りがないとは言えない。そうした部分については、読者の皆様からの批判をお待ちしている。たとえばこの本の提言の一つに、「たかだか賃労働、体力と気力を節約しててきとうに済ませよう」というものがあるが、そもそもこうした提言を実行に移せる労働環境は多くないだろう。あなたが今、サボりや手抜きの余地がないとても過酷な環境下で日々懸命に働いているとして、冷笑的あるいは扇動的にそうした職場からのドロップアウトをそそのかすような権利も義務も僕にはない。まずは各々が無理せずに物質的窮乏を感じずに済む環境が必要だというのが大前提にありつつ、それは残念ながら個人の実践や、言うまでもないが「心の持ちよう」ではほとんど何も変えられないのだ。とは言え残念ながら、そうした苦境にある読者に配れるような知恵や力を与えられるような本は、まだ今の僕には書けそうにない。

組織、そして社会の変革は個人の手に余る。だからといって個々人の思考放棄を肯定するわけにもいかない。個々人の連帯を阻む無力感や相互不信をいかに乗り越えていけるかをまずは個々人で真剣に問う必要がある。僕たち素人ひとりひとりが勉強し、考え、試してみて、失敗し、恥をかき、傷付け合い、間違いながら、少しずつよりマシな方法を模索していくほかないのだ。それはとても面倒で、つらい作業かもしれない。素人は黙っていた方がいい、という声は僕の中にも強くあり続けている。けれども、誰か賢い人からのトップダウンの解決を待望するだけで事態が好転するとは思えない。素人だからとお行儀良く黙ることは、現状追認に資することにしかならない。どうせ素人なのだから、だれもその知性や正確さに期待などしていない。間違うことを恐れて黙っていては、恥知らずの声の大きい人たちにとって都合のいい粗野で下品な社会のありようはいつまでも変わらない。素人に代案まで出せと恫喝する者たちにこそ抵抗しよう。素人は素人らしく、無責任に現状への否を突きつける方法や技術を学ぶべきだ。

素人が哲学や政治や経済を語るという、本来まったく普通のことが、異様なことのように捉えられるのは非常におかしい。僕は素人として、いけしゃあしゃあと、生煮えの持論を振りかざしてみようと思う。あらゆるイズムで簡単にわかった気になることもできる限り避けながら、自分個人の生活から、これはしっくりくるなあという考えだけを頼りに、いったん自分で考えてみたことを、素人臭い手法で書き進めていこうと思う。この試みはまた、素人であることの肯定が、そのまま無思慮や専門知の軽視を意味するこわけではないということの表明にもなるだろう。まず自分の手持ちの語彙で言葉にしてみないことには、より確度の高い知識へのアクセスもできないんじゃないか。

自分の頭で考えるというのは、自分に都合のいい世界観だけに従順な生徒根性でもなければ、自意識過剰で安易な逆張り精神でもない。なんかもっとよりよく生きたいなーという、それ自体はなんの変哲もない欲求から始めてみることなのだと、僕は考えている。

それでは、町でいちばんの素人として、なるべく楽しい感じで、僕たちの生きるこの「世界」とやらを見直す試みを始めることにしよう。

『会社員の哲学』についてはこちら。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。