いま読んでいる本が面白くてごきげん。独立宣言以前のアメリカを読み解き、寛容という実践の変遷を探っていく。そもそも中世までの寛容とは、まったくポジティブな意味を持っておらず、カトリックの絶対的価値観からしたら明らかな悪である事柄を、その悪を糾弾することで獲得される善と、損なわれる利益とのプラグマティックな比較衡量の結果なされる妥協といった意味合いだったという。たとえば逸脱者を弾圧することは、その人たちの憎悪を掻き立て反乱の危険性が高まるために回避するべきだとされる。これは異教徒の改宗という善よりも、治安の維持という利益の方が大きいという判断によるもので、決してユマニストの寛大さではない。中世の価値観において寛容とは、実利のために放任はするが是認はしない、というものでしかなく、カトリックの価値判断が疑われることはなかった。彼らは異教徒などの外側の異質さには寛容をもって遇し周縁化しつつ共存したが、異端には不寛容であることが是とされた。内部の不穏分子は放置していては既存秩序の崩壊につながりかねず、放置するほうが排除よりもリスクが高いという判断だ。
このようにかつて寛容というのは道徳でも理想でもなく、大悪を回避するために小悪を看過するというものだった。あくまで実利を守るための次善の策であり、賞揚されるものではなかった。カトリック一強の「上から目線」の価値判断は、他者を一方的に悪と断ずる偏狭さを持っていたものの、実態としては外部の異教徒たちを容認する寛容さを戦略的に保持していたともいえる。現代的な不寛容は、むしろ宗教改革を機に現れてくるのだという。
宗教改革によって宗教的な真理の複数性が明らかになると、 社会的逸脱への寛容度はむしろ低下する。異端への迫害も、ユダヤ人や同性愛者への反感も、弱まるどころか逆に高まっていった。売春も、より厳格に取り締まられるようになる。エラスムスのような人文主義者たちは、売春婦や乞食を寛容に扱うことに対して、繰り返し反対を表明している。そういう連中は、追放するか、教育するか、働かせるかしなければならない。よりよい社会を目指すには、彼らが悪事へ走る前に根絶やしにしておくべきだ、というのがルネサンス的な教養の示す解決法なのである。
この違いは、根底にある人間理解の違いに由来している。 キリスト教的な理解によれば、人間は弱い存在で、悪を完全に排除することはできない。せいぜいできるのは、何とかして悪を最小限に抑え、なだめすかして共存することである。最終的な悪の排除は、最後の審判まで待たねばならない。他方、ルネサンス的な人文主義では、人間は無限の可能性を与えられた存在である。教育によって人間は限りなく善へと近づき、社会は理想へと近づくことができるはずだという信念がある。だから悪に対して不寛容になるのである。
森本あんり『不寛容論』(新潮社) p.93-34
人は生まれながらに平等であるというユマニストの信念は、皮肉にも個々人の過酷なサバイブを要請することにもなる。現在にも続くパターナリズムと自由主義の対立は、このあたりに起点があるのかもしれない。