2020.12.23(1-p.365)

『負債論』と『だえん問答』を往復する一日。

作業中はオムラヂで先日のON READING でのおしゃべり。改めて、楽しかったなあ。夢中で話していたから内容はあんまり覚えていなかったけれど、大きい話から小さい話まで、彼岸と此岸をのびのびと行き来するかのようなおしゃべりになっているんじゃないか。いいおしゃべりだった。目的地もなくあっちこっちに飛んでいく。

  

アーレントにとっての「社会」のことをずっと考えている。「社会」は公ではなく私的領域であるという指摘。私的なサバイブを個人の問題でなくすことは大事だが、それだけではいつまでも「社会」は私的なものに留まってしまい、どんどん公共を侵食してしまう。サバイブは前提であって、みんなのものについて議論するというのは、よりよい生を考えることと同義だろう。いま誰にとってもサバイブが当然のことではないということは、公共が姿を消し「社会」が拡大しているということなのだろうか。サバイブすらも当然でないとしたら、ただ生存するだけでなくよりよい生活を彩ろうという気概は、たしかにただの贅沢としか捉えられないかもしれない。贅沢の何が悪いのかやっぱりわからないが。

そういうわけで、「社会」という言葉に対するモヤモヤした気持ちが最近はある。

社会という概念がかくも誤解を招きやすいのは、世界は「社会」という一連のコンパクトなモジュール単位に組織されていて、だれもがじぶんはそのなかのどこにいるのか知っていると想定されているからである。歴史的にみれば、これはきわめてまれな事例である。わたしが チンギス = ハンの支配下に暮らすキリスト教徒のアルメニア人商人だったとしよう。わたしにとっての「社会」とはなんだろう? わたしが育った都市か? わたしが日々活動する(複雑な独自の行動規範を有する)国際的な商人社会か? アルメニア語話者か、あるいはキリスト教徒(あるいは正教徒かもしれない)か? はたまた地中海から朝鮮半島まで拡がるモンゴル帝国の住民か? 歴史的にみて、人びとの生活にとって王国や帝国が最も重きをなす参照点だったことはほとんどない。王国は盛衰する。強くもなるし、弱くもなる。政府が人びとの生活に存在感を示すことがあっても、まったく散発的になのである。そして歴史上の大部分の人間にとって、じぶんがどの政府に属しているのか明白だったことはなかったのだ。ごく最近にいたるまで世界の多くの住民は、じぶんがどの国の市民なのか、あるいはそれがなぜ重大な問題なのか、確信をもったことなどなかったのである。(…)

グレーバー『負債論』酒井隆史監訳 高祖岩三郎・佐々木夏子訳(以文社) p.99
柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。