負債と一緒に年越ししちゃなるめえ。そう思って『負債論』にがっつり取り組む。
五〇〇〇年史もいよいよ終盤。こういう本は前半の理論構築編が僕はやっぱり面白くて、具体的な事例を考察する後半はだいたい飽きてしまうのだが──理論はもう分かったので具体的なことは自分の生活の中で実践してみた方が早くない? と思ってしまう──、この本に関してはちゃんと面白い。そもそも議論の基盤となる理論を練り上げるための前半からして、個別具体的な脱線や余談に満ち満ちていて、本筋がほとんど見えないほどだったのだから、最初からずっとこの本の面白さは過剰なまでの脱線や余談にこそ宿っている。プルーストもそうだったが、知識やサービス精神の過剰によって、本題そっちのけでおしゃべりが捗ってしまう人の文章が僕はとても好きだ。
一四〇〇年代は、欧州の歴史において特異な時代である。それはたえまなき破局の世紀であった。大都市は、ペストの襲来によって周期的に打撃をうけた。商業経済は衰え、完全に崩壊した地域もあった。都市全体が破産し、借金の支払い不能におちいった。騎士階級は残りものの富をめぐって争い、地方の戦闘で田舎の大部分を荒廃させた。地政学的用語におけるキリスト教世界さえも揺らいだ。オスマン帝国がビザンツ帝国の残存地域をかすめ取っただけでなく、中央ヨーロッパに着々と拡張し陸地においても海上においても勢力を拡大していった。
グレーバー『負債論』酒井隆史監訳 高祖岩三郎・佐々木夏子訳(以文社) p.456-457
同時に、一般的な農民や都市労働者の多数の観点からは、それ以上望めぬほどよい時代であった。最初の発生の一三四七年以来、数年にわたってヨーロッパの労働力の三分の一を死にいたらしめた疫病の皮肉な影響のひとつが劇的な賃金上昇であった。この影響はすぐさまあらわれたわけではないのだが、それも大部分は、最初のうち当局が、賃金を凍結する法を制定したり自由農民をふたたび土地に緊縛して対応しようとしたからである。こうしたもくろみは強烈な抵抗に遭い、ヨーロッパ全土におよぶ民衆蜂起の連鎖に帰着した。一三八一年の周知のイングランド農民反乱[ワット・タイラーの乱]はそのなかの最も著名な事例であるというにすぎない。これらの蜂起はすべて鎮圧されたが、当局も妥協を強いられた。まもなくして大いなる富が平民の手に渡るようになったため、政府は、諸々の新法を導入して、生まれの卑しい者が絹や毛皮を身につけることを禁止し、祝祭日の日数を制限しなくてはならなくなった。祝祭日は多くの町や教区において年の三分の一ないし半数にまでおよぶようになっていたのである。実際、一五世紀は中世の祝祭的生活の全盛期とみなされている。祝祭を飾ったのは、パレードの山車や竜の飾りもの、メイポールや教会主催のエール祭、いかれた大修道院長(Abbots of Unreason)や無礼講の王 (Lords of Misrule)などである。
今年読んだ本でも目に留まると必ずはっとするのはペストに関するこうした記述で、破局や破綻は、良くも悪くもドラスティックな変化を強いるというような話はやはりありふれている。行き詰まりを感じる時、根本的だと思っているものの起源から疑ってかかるくらいのちゃぶ台返しが必要になってくる。そういう時、既存のフレームワークはまったく通用しないはずだ。グレーバーのアナキストっぽいところは、そうやってそもそもの土台からして欺瞞に満ちていることを茶目っ気たっぷりに例証していくときひときわ輝くようだった。
全体を通して、第九章の脱線をいちばん面白く読んだ。各人の関係のネットワークである貨幣が実体を持つ時、唯物論的思索が華開き、物質世界が自明のものとして現れたからこそ、そのオルタナティブとして精神世界というものが対置される。物質と精神は対立概念ではなく、むしろセットになって発明されたものである。
個人というのはネットワークのノードに過ぎないのだから、そうした諸関係から完全に孤絶した状態を問うことは、仮想された条件下での思考実験でしかないのかもしれない。そんなことを考えていた。
本書がなにかを示してきたとするなら、人類史を通じて、ある状況、すなわち、生の本質とは暴力であるとすら考えてしまえるような状況にわたしたちを誘導するために、どれほどの暴力が必要とされたかということである。わたしたちの日常的経験のどれほど多くが、そのような発想に抗っているかを考えるなら、とりわけそうである[人間の考えの中心に暴力を植え込むために投入された暴力の総量も、実感できるというものである]。すでに強調してきたように、コミュニズムは人間関係すべての基礎かもしれない──わたしたちの日常生活において、なによりも「愛(love)」と呼ばれるものにあらわれているようなコミュニズム──が、常になんらかの交換のシステムが介在していて、そしてたいていそのうえにはヒエラルキーをもったシステムが打ち建てられている。これらの交換システムは際限なく多様な形態をとりうるが、その多くはまったく無害である。しかし、ここでわたしたちが問題にしているのは、厳密な計算をもとにしたきわめて特殊なタイプの交換なのである。冒頭で指摘したように、だれかに恩恵をこうむる[親切にしてもらう](owing someone a favor)ことと負債を負うこと(owing someone a debt)の違いは、負債の場合にはその量が厳密に計算されていることにある。計算は等価性を要請する。そしてそうした等価性──とりわけ人間のあいだの等価性をふくむとき(つまるところ人間は常に究極的な価値であるがゆえに、出発点はいつも人間間の等価性の設定であったようにおもわれる)──があらわれるのは、人びとがみずからの文脈から力づくで切り離され、なにかと同等であるかのように扱われるときのみなのである。「捕虜になった兄弟を返す代わりに七つのイワツバメの皮と一二の大きな銀の指輪」、「一五○ブッシェルの穀粒を貸す担保として三人の娘のうちの一人」(…)といった具合に。
同書 p.569-570
見田宗介も言うように、貨幣からの疎外それ自体は問題ではない。問題なのは、まず貨幣への疎外があり、それから貨幣から疎外されることである。
資本主義リアリズムのような貨幣への疎外の完了は、数値化できない諸価値に対する僕たちの感性を限界まで貧相にする。この感性の貧困がもたらすものは、本来ノードに過ぎない個人を関係性の文脈から切り離された存在であると思い込むことだ。
あらゆる人間関係がすべて厳密に数値化し精算することが可能であると思い込むこと。それは人をそれぞれに孤絶し自己完結した存在としてみなすこととセットである。そういった思い込みがまるで自然な事実であるかのように固定化されているような時、「自由」と言う言葉の定義を再度問い直すことが求められているのかもしれない。自由は、誰からも束縛を受けない、あらゆる関係から解放された状態のことではない。グレーバーが古代社会を紐解いて示すように、自由とは元来、「友をつくる能力」なのだとしたら、むしろ自由は僕たちがいろいろな関係を取り結ぶことからしか始まらない。