なんだか台風前のような天気だ。重たい湿気が生ぬるくまとわりついてきて、刻一刻と下がっていく気圧によってずーんと押さえつけられるようなしんどさがある。風は強めに吹いているのに、曇りの空の灰色が流れていくことはなく、鬱陶しく覆いかぶさってくる感じ。降るならさっさと降りだしてほしいが、夜まで降りはしないらしい。
起きられないことは分かっていたから、午前は予定を入れずたっぷり寝坊してから出社するようにしておいたが、こうして自分で自分を助けることができると、やっていけるぞ、という気持ちが強く育つからとてもいい。その本性からして画一的でしかありえない社会のマニュアル。その便利に乗っかれるところは乗っかりつつ、厳しいところは自分なりにズレておくこと。すべての画一化に抗うのは無茶だが、すべて画一的であろうとするのも無茶だ。乗れるところとズレるところを把握しておくことが大事。
パウル・ティリッヒというプロテスタント神学者の「全体の部分として生きる勇気」について、森本あんりの異端の本で知ったのだと思う。これは単に画一的なマニュアルでの全面的な同化を肯定しているわけではなく、どうやら実存主義的な個人の肯定から信仰に至る道筋を描く中で出てくる言葉らしい。だいぶうろ覚えだし、積んでいるティリッヒを読むタイミングが来たのかもしれない。僕がこの二年ほど信仰について考えているのは、全体主義にも個人主義にも偏らない方法の模索なのだろうと自覚している。社会だけを考えていると、すぐに全体と個人の二項対立の隘路にはまりこんでしまう。かといって現代のこの状況下で、神について真剣に考えられる気もしない。おそらくそういう人は多い。バーガーも言っている。宗教に距離を感じてたとしても、自分はスピリチュアルであると自認している人は多いのだと。
今日のキリスト教でペンテコステ派が膨大な数に及んでいるという問題とは別に、特に北アメリカとヨーロッパで大規模に広まっているいわゆる「霊性運動」(スピリチュアリティ)の現象もある。自分は「宗教を信じてはいない」が「スピリチュアルである」、と言う人々が数多くいる。彼らが何を言おうとしているかを探るのは、さほど難しいことではない。彼らは、特定の宗教(特に自分が生まれ育ったありきたりの宗教)には加わりたくはないが、あれこれのしかたで 「超越的実在」と定義されるような存在に直接触れるような経験をしたか、ないしは経験したい、と言っているのである。「スピリチュアリティ」のいわゆるニューエイジ版にも見られるように、こうした企てはしばしばアジアの宗教伝統を借りてくるという特徴もある。たとえば、「スピリチュアル」な経験を生み出すために瞑想のテクニックを借用したりする。だが実のところ、これら当世の「スピリチュアリスト」 たちは、長い伝統のある月並みなキリスト教神秘主義の焼き直しにすぎない。といっても、彼らはマイスター・エックハルトやアビラのテレサといった偉大なキリスト教神秘主義者の足跡に倣うのではなく、(ジョン・ウェスレーが言ったように)彼らの心を「不思議に暖めてくれる」普通の人々に従うのである。(…)
ピーター・L・バーガー『現代人はキリスト教を信じられるか』森本あんり・篠原和子訳(教文館) p.214
僕は、スピる才能もそんなにない。というか、どうせ新興のスピリチュアリズム諸派も体系だって考えてしまったり、組織を作ったりしてしまうのだから、古来の宗教のほうが複雑さにおいて勝っているし、真剣に神について考えている人の言葉を真剣に考えたほうが、思いもよらないところまで進んでいける気がする。内省だけでは辿り着けない地平があるし、僕はそちらに関心がある。
人間なんてみんな似たようなもん。そうでありながら、それでも他人とわかりあうことは不可能である。この併記が重要な気がする。ほとんど同じでありながら決定的に異なる。まったく別々であるのに画一的であれてしまう。そのわけわからんさを考えたい。
ちょうど事務所を移動するタイミングでとうとう降り出して、ざんざん降りで、風は相変わらず強く、横殴りの雨に打たれながらバスを待つ羽目になった。夏の通り雨みたいだ。気温もぬるいし、いつの間にか季節を間違えた。