2023.02.21

電車のなかで新しい本を始める。

たとえば「批評」をめぐって書きつがれようとしながらいまだ言葉たることができず、ほの暗く湿った欲望としての自分を持てあましていただけのものが、その環境としてある湿原一帯にみなぎる前言語的地熱の高揚を共有しつつようやくおのれを外気にさらす覚悟をきめ、すでに書かれてしまったおびただしい数の言葉たちが境を接しあって揺れている「文学」と呼ばれる圏域に自分をまぎれこまそうと決意する瞬間、あらかじめ捏造されてあるあてがいぶちの疑問符がいくつもわれがちに立ち騒いでその行く手をはばみ、そればかりか、いままさに言葉たろうとしているもののまだ乾ききってもいない表層に重くまつわりついて垂れ下がってしまうので、だから声として響く以前に人目に触れる契機を奪われてしまうその生まれたての言葉たちは、つい先刻まで、自分が言葉とは無縁の領域に住まっていたという事態を途方もない虚構として忘却し、すでに醜く乾涸びたおのれの姿をもはや郷愁すら宿ってはいない視線で撫でてみるのがせいぜいなのだが、そんなできごとが何の驚きもなく反復されているいま、言葉たるために耐えねばならぬ屈辱的な試練の嘆かわしい蔓延ぶりにもかかわらず、なお「批評」をめぐって書きつがれる言葉でありたいと願う湿った欲望を欲望たらしめているものが、言葉そのものの孕む不条理な夢の磁力といったものであり、しかも、その夢の目指すところのものが、言葉自身による「批評」の廃棄というか、「批評」からそれが批評たりうる条件をことごとく奪いつくすことで「批評」を抹殺し、無効とされた「批評」が自分自身を支えきれずに崩壊しようとするとき、かりに一瞬であるにせよ、どことも知れぬ暗闇の一劃に、人があっさり「文学」と呼んでしまいながら究めたことのもないものの限界、つまりはその境界線を投影し、かくして「批評」の消滅と「文学」の瞬間的な自己顕示とが同時的に進行すべく言葉を鍛えておきたいという書くことの背理の確認であるとすれば、誰しも、おのれ自身の言葉の幾重にも奪われているさまに改めて目覚め、書き、そして読むことの不条理に意気阻喪するのもまた当然といわねばならぬ。

蓮實重彦『表層批評宣言』(筑摩書房) p.4-5

書き出しの一文の長さからしてたまらなく楽しく目がそわそわと喜ぶ非常に見事な一文で、句点から句点までの距離の遠さはそのままひとつの快楽であるということを思い出すようなのだが、ここで思い起こされるのは『プルーストを読む生活』のころの僕の日記のことであり、その文体とは素朴にいいきってしまえば一文をなるべく引き延ばすようにして書くということだけを方法としていたし、それ以降の日記が自分でどこか物足りないというか、骨のないもののように思えているのは、まさにこの一文の長さへの拘りを放棄して短文を刈り込むようにして叙事をなすという簡便な書きかたに流れていったからであり、というのも一文の緊張感を保ちつつ開始される地点と句点によっていちおうの完了を迎える地点との相貌をなるべく飛躍させたいという試みは端的に非常に胆力を要するもので、プルーストのような触媒の力を借りながらであれば意欲も湧こうというものだがそうしたフランス語の構造を無理やり日本語に移し替えるような異様な構築性を前に胸をときめかせるような体験もなしにわざわざ苦労しようとは誰も思わないのだから、ふだんの言葉で日記を書けばそのほうが読む側も読みやすいのだし読み書きに投入する労を最小にとどめてやるというのはむしろ当然の親切であるという考えに頷いてやらんでもないと妥協してしまうのが人情ではある、そのように納得してしまうとき、僕の日記は粘り気のない乾涸びたおのれの姿をもはや郷愁すら宿っていない視線で撫でてみるのがせいぜいなのだ。この書き出しの一文のスタイルがそれ自体で記述されている内容以上にこれから書かれようとしているものを表しているのだから、これがいちいち短文に区切られていては、すべてが台無しになるわけだ。かなりの部分について正確性を損ねることを承知の上で、やってみよう。

「批評」をめぐって書きつがれようとしているものがもつ困難について、たとえばこういうイメージを思い描いてみてほしい。書きつがれようとしている「批評」は、いまだ言葉たることができず、ほの暗く湿った欲望としての自分を持てあましていた。ほの暗い欲望を涵養する湿原のような環境があり、そこには前言語的地熱の高揚がみなぎっている。いつしかこの欲望は湿原一体の地熱を共有しつつもようやくおのれを外気にさらす覚悟をきめるだろう。すでに書かれてしまったおびただしい数の言葉たちが境を接しあって揺れている「文学」と呼ばれる圏域に自分をまぎれこまそうと決意する瞬間、あらかじめ捏造されてあるあてがいぶちの疑問符がいくつもわれがちに立ち騒いでその行く手をはばむ。そればかりか、いままさに言葉たろうとしている欲望のまだ乾ききってもいない表層に重くまつわりついて垂れ下がってしまうのだ。声として響く以前に人目に触れる契機を奪われてしまうその生まれたての言葉たちは、つい先刻まで、自分が言葉とは無縁の領域に住まっていたという事態を途方もない虚構として忘却してしまう。すでに醜く乾涸びたおのれの姿をもはや郷愁すら宿ってはいない視線で撫でてみるのがせいぜいだ。このようなできごとは、いま何の驚きもなく反復されている。湿原の前言語的地熱としての欲望が、言葉として表出するために耐えねばならぬ屈辱的な試練が嘆かわしいほど蔓延している。それにもかかわらず、なお「批評」をめぐって書きつがれる言葉でありたいと願う湿った欲望を欲望たらしめているもの、それが言葉そのものの孕む不条理な夢の磁力といったものである。この夢の目指すところのものは、言葉自身による「批評」の廃棄である。「批評」からそれが批評たりうる条件をことごとく奪いつくすことで「批評」を抹殺し、無効とされた「批評」が自分自身を支えきれずに崩壊しようとするとき、かりに一瞬であるにせよ、どことも知れぬ暗闇の一劃に、「文学」と呼ばれるものの境界線を投影する。「文学」とは、人があっさりそう呼んでしまいながらもその限界を究めたことのないものである。このように、「批評」をめぐって書きつがれようと欲望されているものが「批評」の消滅と「文学」の瞬間的な自己顕示とが同時的に進行するために言葉を鍛えておきたいという書くことの背理の確認であるとしよう。そのようなとき、誰しも、おのれ自身の言葉の幾重にも奪われているさまに改めて目覚め、書き、そして読むことの不条理に意気阻喪するのもまた当然といわねばならぬ。

ほら、台無しでしょう?

VPN のアプリを切ってみたらLINE の復旧はあっさりできた。ポイエティークRADIO を聞いて、いちばん面白いポッドキャストだな、と思う。終盤、エッセイや日記において、映画で女優が脱ぐと賞賛されるみたいなクソ伝統的価値観がいまだに根強いことへの違和感を表明し、他者としての「私」を素材として文字を書くさいに要請される技芸のありようについてぼんやりと示唆している。とはいえわかりやすく要約できるような内容にはなっていない。雑談は文学で脱線と呼ばれる連想の塊であり、脈絡はないが飛躍はあり、一貫性はないが矛盾はあるものであり、どこにも収束せず拡散を続ける雑談は、そのまま受け取るほかないものとして聞き流すのがいいんじゃないか。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。