中途半端であることについて考えている。僕はつねに半端者でありたいのだ。
本にせよ映画にせよ音楽にせよ、大多数の人はそんなに興味がなくて「年にひとつかふたつ作品に触れる程度」なのだけれど、そうではない層となると一気に「年中作品のことばかり考えてる」みたいな怪物ばかりのようで、ほどほどのところの人が見当たらないような気がしてくる。
本に関しても、リアルの現場で話す人のほとんどは何にも読んでない人で、インターネットにいる人は僕の知らないあらゆる本を読んでいそうないかめしさを纏っている。これはかなり誇張してはいるけれど、じっさい本を読み始める段階では「こんなもの読んでるのは自分だけだろう」みたいな勘違いを抱きがちであるし、すこしでも本格的にその道に踏み入れてみると「この界隈でもっとも本を読めておらず、おさえるべき基礎教養すらおぼつかない自分はいちばんの雑魚なのだ、恥ずかしい」とこれまた極端な思い込みを叩き込まれる気がしてしまう。
まったく関心がないわけでも、プロフェッショナルでもない部分。初心者と上級者とのあいだにあるはずの中級者というのは、おそらくあらゆる場から見えづらい。でもこの層が厚いほうがいろいろヘルシーな気がしてる。読み書きや鑑賞、制作といったものたちに対する、週末の草野球的な関わりかたをどのように発明するか。そんなことばかり考えている。
わからないのも、わかった気になるのも容易い。そのあいだでわくわくし続けること。
Dr. Holiday Laboratory『脱獄計画(仮)』の初日を観劇。まず驚いたのは2月4日の時点で見学させていただいた公開リハーサルからの目覚ましい変容だ。何より上演のトーンを左右する黒澤多生、油井文寧という二人の俳優の仕事の質の変化は、単なる磨き上げというよりも、幾つもの飛躍を経ていると感じた。劇空間というのは正直、何はともあれ劇場という場と、照明と音響があれば成立してしまう程度のものだ。ほとんど素舞台の空間をあれほどまでに多様に格好よく照らし出す櫻内憧海の照明と、全体のテンポと振り付けを過不足なく差配する森健太朗の音の配置だけでも、演劇としては成立してしまう。本作が演劇の成立与件自体を撹乱し問いただすものである以上、俳優の発声や身振りはいとも簡単に成立してしまう劇空間に対して異物でなくてはならない。とはいえあまりに逸脱してしまうと作品として鑑賞に耐えないものに堕してしまう。作品の成立と逸脱の微妙なバランスを上記二人の俳優が保っている。
俳優たちの言い淀みや目線の揺らぎ、どこまでが意図的でどこまでが事故なのか判然としないテンポのよれが、遅延する映像や後出しにされる真相と相まって、空間に配置される声や体、物語られる筋をダブらせ、ずらしていく。どんどん枝分かれしていく複数。その収拾のつかなさにはもう笑うしかない。公開リハーサルでは嫌な緊張感に萎縮していた僕は、今回の上映では弛緩しきってマスクの下でくすくす笑っていた。この汲み尽くせない複雑さは一種の冗談なのだと思えたから。楽しかった。楽しかったので嬉しかった。
演劇とは始点と終点を明確にするような、完結した一単位であることを拒絶するものなのだということを、ここまで親切に提示してくれる作品もなかなかない。そういう意味ではわかりやすくもある。
ふわふわした気持ちを抱えつつ、誘われるままにお酒を飲みに行って、終電で帰る。この程度の楽しさはありふれているが、しかし楽しい。ありふれている、という燻りと、じゅうぶんに楽しいという素直さを、両方同時に持ち続けることがおそらくとても重要なのだと思う。