2023.02.24

現代の日本社会において、二〇代越えたあたりから「標準的」ライフコースというものは事実上ほとんど存在していないというか、どれだけ「標準」たろうとしても必ずどこかでズレてしまうもので、でも別にそれで終わりなわけなくて、ズレたらズレたなりにやってくしかないのだとわかる。

誰しもどこかでズレるほかないほど「標準」が狭き門になっている状況では、むしろ小学生から高校生くらいまでのあいだにさっさとズレてしまったような人のほうが上手に、かはわからないが、屈託なく渡世をやっていけたりするのではないか。

「普通」へのプレッシャーというのはすこし嘘で、「普通」がユートピアになってるからみんなそれに憧れ欲しがる。でもそれはもうないから、標準化への強迫観念を煽り立てるような態度に対して欺瞞であると断じて、諦めて各々のズレかたを共有してくようなやり方のほうがいいんじゃないかしら。

話は変わるようで通じているのだけど僕は『ちいかわ』が嫌い。嫌い、というかとても苦手。優れた作品ではあると思う、いろいろとかなり巧いのだが、受容のされかたも含めどうも好みでないグロテスクさがきつすぎるように感じる。ひとことでいえば貧乏くさい。ちいかわたちの貧しい姿に「かわいい」と癒されることは、意識的でないにしてもみずからの貧しいながらもけなげにやっている姿を投影していて、そこに慰めを得ているのではないか。「なんでぇ……」「わぁ……」と極限まで損なわれた語彙で日々をやり過ごすほかなく、貧しさの出口がどこにも見出せない構造を名指すこともできないでやみくもに「なんとかなれーッ!」と虚しく叫ぶみじめさを、けなげでかわいいものとして外化することでしか折り合いをつけられなくなっているとしたら、それは非常におぞましい事態ではないか。このようなおぞましさをはっきりと予感させるつくりになっているからこそ巧い作品ではあるのだが、そんな悪趣味なキャラクターたちが、グッズとして氾濫し、クレジットカードにまでプリントされるその姿を見ると、どうにも居心地が悪い。あまりに卑屈な現状肯定。

消費生活(しかも購買力が無いため懸賞に頼らざるを得ない)のなかにあるちいさな喜びを切実に噛み締めるこうした「かわいい」姿は、格差が激しくなり続ける資本主義社会を低所得者層として必死に生きるぼくら自身の映し絵であるように思えてしまう。自立性を失い部品化されていく多くの現代人の生活は、「かわいく」映り得るのである。

TVODコメカの漫画評 かわいさを通して描く「社会システム介入の不可能性」 https://article.me/post/637481fc2034fa74f036447d

この記事を読んで、『ちいかわ』のいやらしさが非常に明晰に読解されていてほっとする。僕が考えているようなことを僕よりも頭がよくて文章が上手い人がすでに考えて書いていてくれるというのは頼もしいことだ。『ちいかわ』を作品として論じようとするとこれ以上の文章はないだろう。ではなぜこんな作品がいまのような受容のされかたをしているのか、それをいろんな賢い人が考えている文章を読みたいような気がしてきた。いや、でも僕はもう正直『ちいかわ』のことを考えたくない。ほんとうに嫌なのだ。『ちいかわ』そのものというよりも、『ちいかわ』が人気を集める世の中の最低さが怖くてたまらない。たとえば犬猫の展示販売なんかよりも、こっちのほうがあけすけで後ろ暗いものであるように思える。犬猫は人間とは異質の他者であるが、ちいかわは鏡である体。みずからの貧しい姿を戯画化し、それを愛でるなど。犬の仕草に勝手にアテレコするよりたちが悪い。自分が苦しんでいる姿に裏声で「ヤダーッ!」と声をあてるようなことだ。

日記を書いていると、素材ないし対象である「私」そのものが、書かれる最中に作り出されていくものであるな、ということを感じる。“芸”とは自己開示ではなく、異質な「私」の発明ではないか。僕は今日の日記を書いているうちに、『ちいかわ』への嫌悪を確信し始めているが、書く前はただちょっと気持ち悪いなくらいにしか思っていなかったかもしれないのだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。