ん……
それでは、始めたいと思います。
今日の日記、というお話。
サーカスに行く日だった。僕が連れて行ってもらったのも恐らく木下大サーカスだったのだと思うのだけど、その時は父親に連れられて、生まれてから四捨五入すると一の位も残らない程度の年齢だった僕は、客電が落ち青白い顔のピエロが手を振ったところでこう言ったのである。
もう帰る。
それがこれまでの僕のサーカスの全てだった。
30を超えて、今となっては四捨五入すると十の位が全部無くなる程度の年齢になったわけだが、奥さんがチケットを取ってくれてまたサーカスに連れて行ってもらえることになっていた。しかも、普通の客たちの倍の値段を払って、一番前方の正面の席でがっつりかぶりつきで観れるのである。立川ガーデンシアターを越えてIKEA すら越えて、ヤギはもう居なくて、テントが見えてくる。真っ赤なウミウシのようなかっこいいテントで僕は思わず駆け出したくなったが、我慢した。僕が大人だからではない、開演の2時間も前だったからだ。
向かいのららぽーとに向かう、正面玄関から入ると吹き抜けの二階部分まで背を伸ばした木が一本立っている。フィアーストリートみたいじゃん! とはしゃぐ。お昼ご飯の場所を探してうろうろする。僕はもうそわそわしている。正直ご飯なんか食べてる場合じゃない。自分でも驚くほど、サーカスを楽しみにしているようで、こんなに期待をしておいて幻滅したらどうしようとナーバスにすらなってくる。3階のフードコートでつじ半を食べる、美味しかった。奥さんが今日の寝巻きを買うあいだトイレを済ませようとトイレに向かうとフロアのあらゆる所からトイレに行ける仕様になっていて、出ると全然知らない所に出たのでしっかりと迷子になった。無事合流できて僕はもう駆け出したい、そろそろ開演の30分前、奥さんもトイレに行こうとするがもうそんな時間はないと乱暴に手首を掴みテントの前まで引っ張って行った、なんてことはなく、なぜなら僕がジェントルマンだからではなく、指定席だったからだ。
虎の顔のゲートをくぐり赤いウミウシの中に入ると、想像していたのと寸分違わずサーカスだった。奥さんとふたりですごい! サーカスみたい! と目を輝かせた。席は前から三番目でほとんど真正面。サーカスのテントというのは移動式の芝居小屋で、後方の客席の上にはしっかりとガラス張りのオペ卓がある。手元灯りの青い光がぼんやりと中を照らしている。
ピエロが出てくる! 男女のふたり組。大きな口で綺麗に笑ってひょこひょこと挨拶をしてくる。
僕は前はここで帰った。
そう隣の奥さんに言う。今日のピエロは怖くなかった、なんならけっこう可愛かった。そこからは怒涛で、あらゆる超絶技巧がクロスフェードで次から次へと披露される。そのスピード感は『吸血鬼すぐ死ぬ』みたいだった。本当に矢継ぎ早だったのではっきりとは憶えていないが椅子を何個も積み重ねたのに逆立ちするのや、一周分誤魔化してさっさと走り去るシマウマや、なんか色々観た。第一部で大満足で第二部はもうちょっと疲れていた。第二部の冒頭、だらけきった不良みたいにノソノソ歩き回るライオンを眺め、器用に体を動かして人間などという低次の存在に根気よく付き合ってくれるゾウを見たり、これは動物園よりも至近距離で見られるから面白いが、人間だけが芸をしていればそれでじゅうぶん面白いような気もしてしまいはする。最後の空中ブランコはほとんど真上で行われるので首が痛くなってしまった。子供のころ本で読んで想像するワインはぶどうジュース、サーカスは丸尾末広だった。実際のワインは苦汁だし、サーカスは、いや確かにサーカスはサーカスだったのだ。でもそのサーカスは悪そうな感じが一つもしないで、動物のペースに人間が合わせ、安全管理もそこそこちゃんとして、あらゆる命が恐ろしく軽く扱われるという子供のころ夢見て恐れた野蛮さだけがなかった。僕は大人なので攫われなかったが、よく太った子供は何人か攫われてライオンの餌になったはずだと信じたい。
高島屋のジュンク堂で国書刊行会50周年フェアを見に行ったが、残念ながらトートバッグは売り切れ、二冊のソローキンは未入荷だった。すごすご後にする。奥さんが疲れて、寒暖差も相まって先程のライオンの様な目つきと緩慢さでのたりのたりと歩く不服と化していたので僕は国書刊行会のせいだと思った。ゴンチャを飲むとライオン人間は人間に戻った。南武線が遅れていたので奥さんがちみちみと甘いお茶を飲んでいるのを眺めて時間を潰しながら電車が空いてきたので谷保へ向かう。
書肆 海と夕焼の現店舗の最終営業日。入って、こんにちは、と声をかけ、壁面の二面の棚を目から丸呑みする様に眺めていく。一周見て、二周見て、三周見る。原民喜が面陳されているの初めて見た、奥さんが嬉しそうに報告してくれる。最終日だから日本の小説のでっけえのをしこたま買おうと思っていたが、あまり荷物を増やす訳にもいかずZINE を中心にいくらか買う。『往還』『パイプの中のかえる』『トラべシア』『いぬのせなか座2号』そしてこの機会にと『モヤモヤの日々』も。これが普通に重いのでここでおしまいになった。レジ打ちをしてもらいながらポツリポツリとお話しし、退散。風が強くてとても寒い。いい本屋さんだったね、奥さんが言う。そうだね、と応える。駅前のインド料理屋なんだかタイ料理屋なんだかラーメン屋なんだかよくわからない店でご飯。『挾み撃ち』読書会の打ち上げもここだった。
何駅か先のビジネスホテルをとってある。チェックインして2秒後には寝ていた。一時間半後に起きだしてシャワーを浴びてから日記を書きだす、だけの元気がもう無かった。アース・ウィンド・アンド・ファイアーを流して踊っても元気は取り戻せなかった、元気などあったためしがあるだろうか。音声入力も修正がめんどくさい、呆然としていると奥さんがこう言った。
口述筆記を試してみる?
そこで僕は文豪さながらにベッドに長々と体を横たえ、こう話し出すのだ。ん……
それでは、始めたいと思います。
今日の日記、というお話。
今日はこのようにして日記は書かれた。音声入力と同じように声を使って書くのだが、音声入力の場合はしゃべるようにして書くことになるのに対し、口述筆記は書くようにして話すのだということがよくわかる。僕が話を脱線させたり、無駄に話を引き延ばすとそのたびに奥さんは呆れたように、いやむしろ苦痛さえ感じているかのように笑みを浮かべ吐息を漏らしくしゃみをする。花粉症が辛そうだ。僕が語り、奥さんが涙や鼻水を堪えながら書き留める、今日の日記はいつもと読点の打ち方や漢字のひらき方が違うと思うがそれもまた面白いんじゃないかと思う。
え、え、そのまま出すの。ここまで書いた奥さんはギョッとした。
おしまい