言語という道具の利点も難点も、その運用上どんな理屈も際限なく突き詰めることができるというところにある。なぜ人を殺してはいけないかなどという陳腐でナンセンスな問いは、そこに具体的な身体が伴っておらずただ言葉上の操作であればなんとだって言えてしまうということの手本でしかない。じっさいに体をもつ個人は、人を殺すようなことはそうないのである。言葉は身体や欲望の次元をないことにもできてしまう。そうして潔癖な極論に容易に辿り着いてしまうが、それはあくまで言葉の次元での擬似的な可能性にすぎない。言葉における擬似的な達成がそのまま具体的な身体に作用することも充分にありえるのもたしかで、文字の効能も限界もこの地点にある。言葉はとにかく体に響かなくてはいけない。
言葉が構築するものは解釈可能性に開かれているという意味では多義的であるがいちどにひとつの理路しか進めないという意味で一面的で、現実の世界は目の前のこのひとつしかないという意味では一義的であるがその内実は多面的である。多面性を一挙に把握することが言葉は苦手で、この道具を万能であると錯覚するととたんに現実の相貌を捉え損ねることになる。程度問題はもともと言葉の苦手分野なのだ。だから言語化というのは単線的な理路を一つ獲得するだけならむしろ有害ですらあって、複数の理路を安易に合流させることなしにもてるくらいにまで使用しないのならば言葉を使わないほうがいいということさえある。
退勤後に中延まで足を伸ばして青木さんと杉田俊介さんのトークを見に行った。おふたりともとにかく合理的に断言できない地点で、とりあえずの落としどころを探るようにして書くし読むし喋る。そのうえで、僕からしてみたら謎の規範意識に囚われてもいて、そのバランスがとても面白い。僕は年上に懐きやすいほうだと思うが、どんな人に懐くのかというと部分否定が通用しそうな人なのだと思う。しれっと打ち上げにも参加させていただいて、楽しかった。ずいぶんしゃあしゃあと話してしまった。僕は自分が年少者の場では不遜に振る舞うようにしているが、年長者になる割合が増えてくる年頃でもあり、それこそ場に居る方法論が複数に分裂している。生意気なやつという自認のまま、強圧的な振る舞いをするダサさに陥らないように注意深くいたいが、もしかしたらすでに手遅れなのかもしれない。ひとは偉くなるのではなく偉く見られるようになるだけなのだから。