早稲田は卒業式のようだった。穴八幡前の交差点には晴着が屯していて華やかだった。青木さんとNENOi で待ち合わせしており、坂道を上ると根井さんがいらっしゃる。お久しぶりだった。青木さんはカフェオレを頼んでいたようなので僕もコーヒーをもらう。ちびちびと飲みながら昨晩のイベントの感想や連想をあれこれと話していると、うしろから声をかけられる。えんがわさんだった。すぐには信じられなくて、ぽかんとしてしまう。えんがわさんは名古屋のON READING でのイベントにいつも来てくださる方だった。いつかの回で僕とアルフォートの関係について質問を投げかけてくれたり、毎回トーク中に頷きや笑顔などの反応を返してくれて励まされていた。名古屋に登壇するときはぼんやりと顔を思い浮かべる方で、つまりはふだんは東京にいるはずのない人なのだ。僕はちょうど早稲田までの道中に九鬼周造を読んでいたのだった。
例えば同じ工場につとめている者がその工場の建物のなかで、別段、遇うつもりもなく遇ったとすれば、それは偶然であります。しかしそれはチョイチョイ起りがちなことであって偶然にはちがいありませんが、いわば必然の方向を向いた偶然、従ってあまり目立たない偶然であります。それに反して二人が工場の所在地からずっと離れたどこかの町で思いがけずピッタリ遇ったとすれば、その場合には偶然ということが特に鋭く目立ってくるのであります。稀れにしか起り得ないことだからであります。稀れにしか起らないこと、というのは遇いにくいこと、という意味であります。
菅野昭正編『九鬼周造随筆集』(岩波書店)
嬉しいことがあるものだなあ、と『本屋めぐり』を買ってお店を出て、メルシーに行こうと思ったが並んでいたので高木やにする。体調的に辛いのはよそうと豚しゃぶのやつにしておいた。食べている最中も電車を乗り継いでいく中でも青木さんとはとにかくずっと喋っていた。
雨は小降りになって傘もいらないくらいで助かった。浅草橋まで出て書肆スーベニアへ。移転されてから初の来店。僕や青木さんの本が入ってすぐのところに並べられていてふたりではしゃぐ。お店は前の場所よりも広く明るくなっていて、棚と棚のあいだの抜けのよさが気持ちいい。魅力的な本の密度はむしろ高まっているようで、僕は本屋はいつも二周して、一周目で気にかかった本のうち二周目まで覚えていたものを買うようにしているのだけれど、一周目でぜったいに欲しいと焼き付けられた本の総額が三万円を超えたので、二周目では泣く泣く減らしていくようにして本を取っていく。特にみすずは諦めた。脳内発話の本とアーカイブの本がたいへん面白そうだったのだけど。のこったのは岩波の明治大正期の文学史についての座談会六巻セット、国書刊行会の百貨店のやつ、夏葉社の私小説。ほくほく。ご挨拶してすこしお話しさせてもらう。
浅草まで歩いてお茶でもしよう、てきとうに歩きだす。オムラヂの録音が始まる。隅田川沿いを歩こうと思ったがなかなか出られない。ようやく出られたところで雨も止んでいたのでベンチに腰掛けて川を眺めながら話を続ける。けっきょく一時間以上やってしまって浅草行きは諦める。蔵前から電車に乗って学芸大学へ向かう。イベントの前にSUNNY BOY BOOKS に行って、僕は大澤真幸の『〈世界史〉の哲学』の古本があったのでタイミングよく手に入れる。レジ前で楽しくおしゃべりさせていただいて、こんど沖縄に行きたいね、ということになる。実現したら楽しいな。
夜のイベント会場である八百屋まで青木さんを送って解散のつもりが、なんやかやで参加させてもらうことに。控え室に通してもらって、なんでいるのかわからないやつとしてしれっとその場に居座って、こういうのは愉快だな、と思う。対談のお相手の岡田基生という方を存じ上げなかったのだけれどお話がとても面白くてにこにこする。戦前の日本の思想の見取り図や知識層が技術者を指していた古代の哲学観から捉える繕いの可能性、あるいは多面的な思想の共存した実業家としての宮沢賢治像、こうして書くと発散しているようで資本主義的合理性に回収されない美意識の問題としてなんとなく収斂していくように話されていた。青木さんは──僕もそうだが──話が長い人を呼び寄せるからいいな、と思う。話が長いというのは思考のストロークが長いということなのでいいことでしかないはずなのだ。長丁場のイベントですこし不安だったのだけどちゃんと楽しめたのでよかった。ノートを控え室に置いてきてしまったので手元のiPhone でメモをとっていたが、どうも人の話を聞きながらこれをいじるのは散漫になってしまってすこし勿体ない感じがある。ぬるっと始まる懇親会では寺田本家の五人娘を頼んで、乾杯の後もなかなか出てこないから尋ねてみると出し忘れていたとのことで、お詫びというわけでもないけど、とほんらい小瓶の半分の量のところを一本丸々いただいてしまった。せっかくのご厚意だしとクイクイッとおいしく飲んでいたらぺろぺろに酔っ払ってしまって愚かだった。明日は午前の新幹線で静岡のつもりなのだ。こんな体たらくでは青木さんの多動っぷりに対して僕は何も言えないが、青木さんだって明日の午前に奈良まで帰るのだからやっぱり青木さんのほうがどうかしてる。
帰りの電車で自分よりべろべろの人がいると安心する。男の人が女の人に席を譲って立ちながらおしゃべりしてる。女は男のバッグを弄っている。男はふと舟木一夫だ、と言う。え、この鞄が舟木一夫なの?ちがうよ、これはフェリージ。舟木一夫は、なんだろ、昔の人。ああ、へえ、とわかっていないような生返事していていつのまにか最近のフランクミュラーは高いよねえという話で盛り上がっている。ロレックスの値上がりも異常らしい。下手にカスタマイズすると転売するとき不利だという。僕は寝過ごさないように偶然隣り合わせた酔っ払いのどうでもいい会話をこうしてスケッチしているが、この段落は今日の日記でいちばんどうでもいいところだし、僕じしん隣の会話が面白いとも思えない。素面に戻ったときどうかは知らない。別の酔っ払いが遠くの席で、僕はいまこの時間もマネーだと思ってますから!と熱弁を始めた。そうか、マネーなんだね。今日の電車はとにかくカネの話をみんなしているね。僕は眠くなってきたよ。