きのうくらいの、千葉雅也の男性の自慰と女性の生理の近似を仮構したツイートが顰蹙を買っているようで、僕の観測範囲では千葉雅也のツイートがノンケのおっさんの暴言のように扱われること自体がSNS における自らの当事者性を前提とした語りの難しさというか、個々人の微妙で身体寄りの差異を無化し画一化した上でしかものごとを語りえないプラットフォームの限界を示すようだった。それはともかく僕は千葉雅也の本を楽しく読んでいて、本のいいところは、というかそもそも音楽や演技やなんでも全ての作品がそうなのだが、その書き手の全人格的な肯定など必要とせず、書かれたその文字で判断できるところで、全ての意見に賛同できるほうが不気味で、党派性やイデオロギーにこだわらず面白いところだけ取り入れていけるところだった。読むことや引用することや聴くことや買うことや観ることは、そのままその作り手を全面的に肯定することではないなどというのは当たり前のことで、買い物は投票かもしれないがその発想はすべての価値判断は市場にあるという資本主義リアリズムを有していることに無自覚ではないか。Twitter のようなプラットフォームは、一つのイシューに対して荘司的なというか『デッドライン』的な微妙かつ対立的なスタンスでいることとかなり相性が悪くて、対立的であるならば明確な党派が問われるようなところがあって、難しい。しかし難しいからといって、簡単に党派的な闘争に利用されそうな微妙な発言を慎むべきだというのも安易だ。ここで僕は改めてトランプのアカウント停止のことを考える。彼の場合は自身が公的な存在である以上、私企業であるプラットフォームが規制をかけることには妥当性があると思っているが、そういうのは大統領とかせいぜい政治家くらいのもので、影響力があろうとなかろうと思想家を抑圧する正当性はどこにもないだろう。
企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても
士郎政宗『攻殻機動隊』一巻(講談社)
国家や民族が消えてなくなる程
情報化されていない近未来
肥大化したプラットフォームの公的責任みたいなことがいまはよく聞こえてくるが、トランプのような公人が私企業のプラットフォームを利用することの是非と、千葉雅也のような私人が少なくはない影響力を有しているからといって発言の自由を妨げられていいのかというのは、まったく性質の違うことであって、後者は単なる私刑にしかならない。
というこういうことを私はこのあいだから書きはじめた、しかし何か違う。私はこのあいだもその前も実家に帰るのに鎌倉駅から遠回りになるこの道を歩きながら感じるこれは何なのか、私は単純に小学校の帰りに歩いたこの道のことを書き、書くということは書くための時間をそのあいだそれについて考えることに費やす、それをするために書きたいわけではないんだろうと思うようになった。
保坂和志『猫がこなくなった』(文藝春秋) p.100-101
日中NENOi さんに伺って、岸波さんとの待ち合わせだった。置いていただいていたZINE版の『プルーストを読む生活』の精算と、買い物。イ・ランや『人類堆肥化計画』、『天才たちの日課 女性編』などをほくほくと。さいきんのジャンプの躍進についておしゃべりする。
それで昨日とうってかわって陽気がいい感じだったので戸山公園で録音を行う。詩歌の楽しみ方について、僕がわからんわからんとムニャムニャ言うのに、岸波さんは穏やかににこにこしながら応えてくださって、しかしそれは教え授けると言う感じでもなく、ただうんうんと聴いてくれるような話し方で、むしろ僕の方が調子良くしゃべってしまった気もして、ほとんど詩をどう楽しんだらいいか戸惑う僕の個人相談みたいになった。面白かった。聴いてくれる人も面白がってくれると嬉しい。どんな作品も、まずは素朴にいいなあと思う、そういうのだけでいいんだよな、と思う。僕は小説や批評や哲学や絵画や映画ではそれができるのに、詩歌でだけ躓くのって変だな、と気づけた。
ゴトーでケーキを買って帰る。