2021.01.26(2-p.16)

僭主政治についての箇所が妙に引っかかった。たぶんいまの日本とかいう国の、さいきんは国とかますますよくわからないが、状況を重ねている。

(…)事実、この種の統治形態が苛酷でない場合がよくある。むしろこの形態があまりにうまく作用しすぎるという点こそ問題なのである。自分たちの役割を承知している場合、僭主たちが「万事について情深く温和である」場合も十分ありうる。ペイシストラトスの場合がそうで、彼の支配は、古代においてさえ、「クロノスの黄金時代」と比較されたほどである。そしてとくに、成功はしなかったものの、古代に奴隷制を廃止しようと企てたのは、コリント の僭主ペリアンドス唯一人であったということを聞くと、彼らのとった措置は、近代人の耳には大変 「非暴君的」で有益なもののように聞こえるだろう。ところが、これらの僭主政治は、市民を公的領域から追放し、市民は私的な仕事に専念すべきであると主張し、他方、「支配者のみが公的問題に従事すべきである」と主張する点で、すべて共通している。たしかに、そうすれば、私的な努力や勤勉さを助長することにはなる。しかし市民がこの政策の中に見たのは、共通の問題に参加するのに必要な時間を自分たちから奪おうとする企てにすぎなかった。暴政は明らかに、短期的に見れば利点をもっている。すなわち、安定性、安全性、生産性という点で利点をもっている。しかし、気をつけなければならないのは、このような暴政の利点なのである。なぜならば、たとえ実際の災難は比較的遠い将来に起こるとしても、ほかならぬこのような利点によって、権力が不可避的に失われる道が準備されるからである。
実際、もろい人間事象から静かで堅固な秩序への逃亡は、多くの利点をもっている。だからプラトン以来の大部分の政治哲学は、単に、政治全体から逃亡するための理論的基礎と実践的方法を発見しようとするさまざまな試みにすぎなかったと解釈することもできよう。このような逃亡につきものの証拠は、支配の概念である。つまり、人びとが法的、政治的に共生できるのは、ただ、ある人間に命令権が与えられ、他の人間は強制的に服従する場合だけである、という観念である。この月並みな観念は、すでにプラトンとアリストテレスに見られる。それによると、すべての政治共同体は、支配する人びとと支配される人びとから成る。(ひるがえってこの仮定は、統治形態の流行の定義──一人支配、少数者支配、多数者支配の基礎になっている。)このような観念は、人間にたいする軽蔑にもとづいているというよりは、活動にたいする疑念にもとづいているのであり、権力にたいする無責任で暴君的な意志から生じたというよりは、活動に代わる代替物を発見しようという熱烈な欲望から生じたものである。

アーレント『人間の条件』志水速雄訳(ちくま学芸文庫) p.350-351

とくに「市民は私的な仕事に専念すべきであると主張し、他方、「支配者のみが公的問題に従事すべきである」と主張する点で、すべて共通している。たしかに、そうすれば、私的な努力や勤勉さを助長することにはなる。」のところで、僕はたとえば新自由主義と名指されるようなものを批判するときに語られる自己責任という言葉に対するスタンスに煮え切らなさを感じていて、それは多分自己責任を前提とした自由を僕もかなりの程度甘受しているんじゃないか? という座りの悪さがあるようで、個人的なことこそが政治的なことだというのを語る短所として自己責任というものの行き過ぎを責めるみたいな方法論に乗り切れない部分があったのだけど、こうして書いている間にも何でここを読んでそう思ったのかよくわかんなくなってきたけれど、そもそも公私という分け方が有耶無耶になってることが気持ち悪いんだなあと腑に落ちたのだろうか、そんなことアーレントを読み出した頃からずっと予感していることで、だからなにが発見だったかわかんなくなってしまった。たぶん自己責任という言葉を批判することは気をつけないと「支配者のみが公的問題に従事すべきである」みたいな気分を強めかねないとかそういうことだと思う。たぶんそうだ。ようは個人の責任というのは個人の生存にあるのではなくむしろ公的領域を豊かにすることこそにあるのではないかと僕は思いたくて、私的領域とされる個人の生存こそが為政者の最重要な責務であって、公的領域の充実はむしろ個人の責務なんだと言いたくて、この転回のためには、自己責任という言葉を軸に私的領域を公的領域に還していくみたいな作戦では不充分なのかもしれない、とこのようなことをたぶん考えたみたいだった。生きるか死ぬかという状況は人間として異様なので、みんなで解消しようというのは大前提で、そのうえで、気の合わない人やまったく意味のわからない人とも一緒にやっていくためのシステムをどんなものにするか、みたいな公的な部分を調整していくのが政治の本来の姿だろうというようなことなのだけど、まだうまく書けない。

低気圧だからだろうか、朝から非常に体調が悪い。朝からというか昨日の晩からそうだった。奥さんも僕も夢見が悪く、明け方に目が覚めてしまった。眠りはずっと浅かった。げろげろ言いながらTwitterを開くと、古本りんてん舎さんが何かの本の復刊を喜んでいた。なんじゃろ、と遡ると、『日常的実践のポイエティーク』が復刊とのこと! ウワーイ! とにわかに椅子から飛び上がり、小躍りをしてから、体調の悪さを思い出し、コーヒーが切れていたのでゾンビになったイギー・ポップのようにcoffee…と呻いていたらゾンビが家にいるのやだ、ゾンビって臭そうだし一緒に暮らせない、さっさと豆買ってきなよ、と奥さんに追い立てられるように家を出た。セルトーの復刊の報のおかげで立ち上がることができた。コーヒー豆を買って、待ちきれずその場でテイクアウトも一杯お願いし、よろよろと飲みながら帰った。家に着く頃にはすっかり蘇生していたが、もうすっかり夜で、奥さんは、めまい、と呻きながらゾンビのようになっていた。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。