その朝地球上でいちばんでかい豚の糞かもしれないと、怯えながら思った。これまで存在したなかでいちばんでかいかもしれない。まさに肝がつぶれるような光景で、すぐには豚の糞だと特定できなかった。冬の早朝のあの赤い光のなかで、その湯気を立てる糞のオベリスクが輝くさまといったら。値をつけられない崇高な金塊とまちがえられたかもしれない。一度修理され、いまは叩きつぶされた安物の白鍮製の靴のバックルの、変色しているがまごうことなき形が、ピラミッドの底から突き出していなかったなら。 柵に昇り、近くから目を凝らす。きらめく豚の糞の山の周囲にあるかき回された土のなかに、度を越したどんちゃん騒ぎのあとに打ち捨てられたような体で散乱しているのは、シャツの切れ端(血だらけ)、黒い燕尾服の尾部(ずたずた)、青い絹の袖(ぼろぼろ)、染みがついた絹のハンカチの半分(ベたべた)。 すると、人間の太腿の骨のような不穏な感じのものがあることに気がついた。ほかにも、血と泥にまみれた骨。あばら骨。大腿骨。それだけじゃない──脛骨。前腕の骨。脊椎骨。続いて、巨大なこぶが見えた。信託統治されている太平洋のある島の堕ちた偶像みたいに横倒しになっている、血だらけの大きな頭蓋骨。 カースルレイが屁をひった。そのにおいは甘ったるいと同時につんと鼻をつき、凄まじいまでに圧倒されんばかりだったが、風下に立っていたおれは、その瞬間、そのなじみのある悪臭が、ランプリエール氏の微粒子状のエキスにほかならないことがわかった。
リチャード・フラナガン『グールド魚類画帖』渡辺佐智江訳(白水社) p.239-240
楽しいなあ、と思いながら酷い話を読んでいる。僕は翻訳された小説はだいたい最初の一〇〇ページくらいまじで何が起こっているのかわからないまま読んでいることが多い。人の名前も覚えられないし、それこそ背景にある差別感情や歴史の層みたいなのが全く推測できないから地名や人間関係の機微がまったくわからない。そもそも前提を共有していないから裏切られたりする余地がなく、ただわけもわからず文字を拾うことになる。一〇〇ページ超えたあたりでようやくリズムや事態が掴めてきて、ちゃんと楽しめるようになる。そこで振り返って冒頭の一〇〇ページをざっと見返すと、なんでこれが頭に入ってこなかったんだろう、と思うくらい明瞭にぜんぶ入ってくる。この最初にウンウン唸りながらどこにもたどり着けないかもしれないと思いながら文字を追いかけるのも楽しいし、一気に見晴らしが良くなる瞬間の快感はやみつきになる。フラナガンもそうだった。いまとなってはこんなに楽しい小説はないくらいに思っている。
僕はなににせよあまり下ネタというものの面白さがわからない子供だった。おしっことかうんちとか何が面白いのか。だからコロコロコミックは半分も楽しめなかった。上品だったというわけでもないと思うのだけど、上品だったのだろう。いまも正直そこまでおしっことかうんちは面白いとは思えないのだが糞尿にはおおはしゃぎする。そういうことなのだが、伝わるだろうか。ちんちんは面白くないが、男根は面白いのだ。伝わるだろうか。おっぱいは、しかし乳房でもおっぱいでもいいな。しまった、余計なことを言ってますますわからなくなってきた。とにかく小説に出てくる臭い立つような糞尿の話は、幼少期からずっと面白がれないでいるおしっことかうんちと違って読んでいるこちらに訴えかけてくるものというか、グッと来させる何かがある。たぶんそれは、まじで臭そう、ということだろうか。
H.A.B の読書トートを奥さんにリュックとの2WAY に改造してもらったのを「これからは読書を背負っていく」みたいなこと書いてTwitter で自慢したら、たくさんの人にいいねと言ってもらえて嬉しかった。それを眺めながら奥さんとランチに焼肉を食べた。肉はいい気分になるからいい。それから買い物をして帰ると、夕方で、しかしそれだけで僕はすっかり眠たくてくたびれて歩くのも嫌になって、帰って早々布団に倒れ込み小一時間ほど眠ってしまう。
夜は奥さんがベンガル料理を作る。湯沢くんが好きそうな味だ〜、とおいしくいただく。奥さんはあなたは湯沢くん知らないでしょ、と言われる。知らない。