2023.10.19

午前中は見田宗介。

故郷の村をあとにした労働者のむれが都会に集中してくることは、資本主義社会成立期の普遍的な現象であって、けっして日本独自ではない。にもかかわらず、日本の流行歌において、望郷のモチーフが、質的にも量的にもかくも大きな比重を占めるのはなぜか。それはおそらく、「出稼ぎ型」 労働と無関係ではなかっただろう。日本の労働者は、エンクロージャー等々によって、根こそぎ家郷を追われてきた字義とおりの無産の民とも異なり、ふるさとを決然見すてた出郷者のグループともちがい、家計の補助と「口へらし」位の意味で都会に働き口をもとめる、農家の娘や二、三男であった。年々都会に流れこんでくる日本の若い男女の労働者たちは、その大部分が、ふるさとを追われて来たのでもなく、ふるさとを見すてて来たのでもなく、ふるさとの駅を見送られて来たのであった。彼らはけっして、一〇〇%の家郷喪失者ではなかった。そこに彼らの孤独やかなしみの、二重の意味での甘さがあった。すなわち、彼らの郷愁の、したがってまた、日本の望郷の歌の、うつくしさと安易さとがあった。

『定本見田宗介著作集Ⅳ 近代日本の心情の歴史』(岩波書店) p.201 強調部原文傍点

ここは、言われてみれば確かにい、と思った。明治初期の一揆や強訴についてデータを検証する別の巻では、その事由に共有地の公用化への異議申し立てがあったはずで、本源的蓄積がまったくなかったというわけでもない。とはいえ大半の農民が賃労働者として都市に追いやられていくというような事態が、すくなくとも民衆の主観のうえでは、不穏当な暴力ではない形で進行していたというのは盲点というよりあんまり考えたことのなかった観点で、面白い。

横浜に行く。ファンクラブに入ってすぐさま抽選に申し込んだBUCK-TICK のライブ。きょうはファンクラブ会員限定の日なのだ。幕張で退場しながら入会して以来、浦和で映像を見て円盤も買って、高崎の二日は現地入りして、配信があるたびに観ていたからこの三ヶ月足らずでずいぶんな勢いで嵌りこんでいる。ライブハウスは僕はやや苦手で──手拍子に代表されるダサい同調圧力が嫌い──楽しめるか心配ですこし緊張する。緊張するということは楽しみにしているということ。物販の受付開始に合わせて会場に向かうともうすでに立派に行列で、IDチェックと合わせて一時間ほど並ぶ。柄谷行人『反文学論』をちょうど読み終えた。要所でチクリと光る皮肉が冴えていて、にこにこしてしまう。「実に感動的なエッセー」などとわざわざ「感動的」に傍点をつけたうえですぐ次の一文で「もちろん私は感動しなかった」と追撃したりする。いいなあ。パーカーと配信で観てあまりの格好良さにのけぞった2013年のライブの円盤を買う。パーカーに着替えて、着てきたカーディガンと荷物を西口のロッカーにしまう。横浜駅を挟んだ東西の移動はすこしややこしく、住んでいた頃は西に偏っていたので東はほとんど未知のままだった。しかしモアズから抜ければ東も西の延長のような気分で歩けるから安心してヨドバシの地下で遅めの昼を食べて、てきとうなベンチで今度は『意味という病』を読み始めた。横浜はお金を払わずに長居できる空隙が至る所にあっていい。地べたに座る行儀悪い若人が至る所にいて、嬉しくなってしまう。そう、街はそうやって使うものだ。

一四〇〇番代なので開場時間をまわったころに会場をめざし、上手後方に場所を取る。何も考えずに入った扉がそうだったからで、下手側から入ればよかったなとすこし思う。四分押しくらいで客電が落ちて、「SCARECROW」で始まる。もしかしたらBUCK-TICK はホールでこそ映えるのかもしれないというのは過去の映像を観て感じていたことで、すこし声が走るようだ。二曲目は「BOY septem peccata mortalia」でこれはセプテムの曲でつまりはネロちゃまだから嬉しくて、でもやはりすこし調子が悪そう、声を胸の上のほうだけで出している感じ、客の伸ばす手に遮られがちな視界でははっきりしないけれどいつしか座り込んでいて、つづく「絶界」のころにはしゃがんだまま歌っていたのではないか。ブルー転の時間がやけに長く、客側からの声がけも間延びしてきて白々しい。スタッフがやってきて屈み込む。なにやら話かけ、そのままスタッフにもたれかかるようにして、そのよろけかたに、あ、と思う。スタッフはそのまま肩を貸して一緒に下手袖にはけていく。今井さんが続いて舞台を降りて、しばらく間を置いてヒデさんも袖へ。兄弟はわりと長いあいだ残っていたが、弟が兄に声をかけ一緒に退場していく。入れ替わりで今井さんがふらっと出てきて、ちょっと休憩します、とマイクを通して声を掛ける。この間、場内はどんどんと冷え込み、捲り上げていたパーカーの袖を直す。前の客はじっと両手を固く組んでいた。状況確認中だからちょっと待っててね、とアナウンスがあって客電が点いて、きょうはもう無理だなあと思う。あちこちから、無理しないで、という声がする。思ったよりも早くに中止の判断がくだって、みっちり詰め込まれた人々は落胆よりも心配を滲ませた拍手で応える。粛々と箱から人が出ていく。そうかあ。演者が目の前でパフォーマンスを断念する姿を見るのはつらい。大事でなければいい。しっかり休養をとってほしい。あと二〇年は見ていたい。一杯ひっかける気分でもないのでまっすぐ電車に乗って、ビールと餃子とアイスを買って帰る。2013年の映像を肴に飲み食いして、風呂に入る。日記を書く段にきて悄気返る。このまま書き始めたらどんどん落ち込んじゃう、と溢す。

それが日記だから。

そう奥さんは答えてヨガマットの上で体操を始めた。そう、それが日記なのだ。しょんぼりした気持ちはその日のうちに書かなければどんどん別物になっていくし、この日の出来事はたぶんすでにあらゆるところで書かれ、話され、印象はそれらに触れた途端にあっさり上書きされていくだろう。すでにいくらか塗り替えられている実感がある。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。