さまざまな社会状態、あるいは社会構造を、われわれが評価し、批判し、選択し、構想するための普遍的な価値の基準というものを、明確に一義的な表現によって確定することが可能であろうか。 またわれわれが行動を選ぶばあいに、ある行動ではなく他の行動を選ぶことが正しいということの根拠を、すみずみまで合理的な論証によって根拠づけるということが一般に可能であろうか。 二つは一応別個の相からとらえられた問題であるが、いずれにせよわれわれがたんに、上空飛翔的な批評家としてでなく、歴史形成的な実践の主体としてあろうとするかぎり、このような目的あるいは実践の決定基準は、さまざまな価値を終局において線形的(一次元的)に序列づけうるものでなければならないであろう。
なぜならば実践の主体としてのわれわれは、現実に生起するさまざまな問題に対して、おのおのの時点において結局ただ一つの態度を自己のものとして決定せざるをえないのであるが、もしもこの行動の基準が最終的に、二つあるいはそれ以上の通約不可能な価値基準から成っているばあいには、Aの基準に即してはaの選択が、Bの基準に即してはbの選択が、より好ましい等々ということになり、合理的に根拠づけられた態度決定は不可能ということになるからである。
したがってもしもわれわれの社会的な態度決定が、つねにすみずみまで合理的な根拠をもって行われうるものであれば、かりに選択の基準が複数であるばあいにも、最終的には、それら相互の優先順位なり比重なりの決定ということをとおして、集合論でいう「線形順序集合」(全順序集合)のかたちに変換されうるものであることを要請される。
また反対に、もしもこのような究極的な価値の基準が、線形順序集合として最終的にひきしぼられうるものでないならば、地上に一義的な正義は存在しないこととなり、われわれの態度決定はつねに合理的な根拠をもってなされうるとは限らず、ある没合理的な決断の要素を含まざるをえぬばあいがあるということを意味する。
『定本 見田宗介著作集Ⅶ 未来展望の社会学』(岩波書店) p.54-55
不動産屋への道すがら見田宗介はこんなことを言っていた。引越しという実践の主体としての僕は、ただ一つの態度を決定せざるをえないわけだが、二つかそれ以上の通約不可能な価値基準が並立するなかで、ある基準においては合理的でありつつ別の基準では不合理であるような、没合理的な決断をどこかで強いられることになる。そのように合理的でありつつ不合理な、一元的に合理的であると決定不可能な決断のあとに、なにひとつ悔恨がないということは原理的にあり得ないということを見田はこのあと簡潔かつ説得的に論証してみせる。そうはいっても僕は価格も手ごろで利便性のよい立地にある広くてハッピーな家に住みたいものだと考えていた。
「明日からちゃんとしよう」と決めてからちゃんとできるまで100日くらいかかるからいつまで経っても明日にできない。2023年はまだ松も取れてない気がする。
長袖を重ね着するようになったころから、どうも元気がない。きょうようやく、いま自分は元気がないのだな、と冷静に受け入れる元気が出てきた。それまではただ、なんでこんなに動けないんだろうと悄気るほかなかった。
励まされたい。いまはとにかく励まされて、そのことにプレッシャーを感じたい。追い詰められたい。そうやって仕方なく腰を上げるほか、立ち上がれる方法を思いつける気がしない。
長期的な計画ばかりが混んでいて、すぐさま潰せるタスクが乏しいのがよくない気がする。〆切だとか梱包発送だとか、用事が五、六個あると張り合いが出る気がする。注文が欲しいなあ! しかし注文はそうそう来るものでもないので、いかに自分で自分にちょうどよい発注ができるかをこそ考える必要がある。
景気づけに本屋で『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』を買った。『歌というフィクション』が面白かったし、本を読んでいれば元気になるから。しかし本を読むのは疲れもする。だから月曜日は休むことにしてみたりもしたが、疲れなければ元気かというとそうではない。へとへとのくたくたでも元気、ということもあるし、疲れは残っていなくてもしょげしょげ、ということもある。
おれを元気にするものは、おれを疲れさせる。
格言めいたフレーズを思いついたが、使いどころがないなと思う。そういうものを置いておけるから日記というのはいい。アフォリズムで構成される日記というのはどうだろう。トイレの壁などに好適かもしれない。一日一格言日記。うざすぎる。
夜、奥さんに襟足を刈り上げてもらう。襟足の長い自分が嫌なことに気がついたから。うなじがすーすーしてうれしい。