永井聖剛『自然と人生とのあいだ──自然主義文学の生態学』はこのひと月ほどかけてちまちまと読み進めているがとても面白い。買いたてほやほやの大谷能生『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』は思った以上に『歌というフィクション』と密接に関連しており、前作は吉本隆明をはじめて面白がれる気がした本だったが、今回もそうで、永井の本では田山花袋への興味が掻き立てられているのでいま読んでいる二冊は両方とも読まず嫌いをしていた書き手への偏見をしりぞけ素直な関心をもたせてくれるいい本であるといえそうだ。大谷のほうは、難解に感じていたいぬのせなか座の山本浩貴のテクストは、吉本隆明のタームを踏まえていればもうすこしスムースに読めたのかもなという気持ちになるのもいいところだ。言語表現の作者とは、無数の先行するテクストを縦横に引用することであるテクストが織り上げられる、その言語行為の生起する場の謂であり、読めないなあと感じる時、それはその場でなにが起こっているのか捉え損なっている、つまりは目の前の織物を構成している引用について無知である場合も多い。どんな問いのもとにどんな資源を使って書こうとしているかさえ把握できれば、なんだそんなことだったのか、とあっさり腑に落ちるというのはよくあることで、ある本を読みたいからこそ別の本をきちんと読み込むという迂遠さは遠回りでもなんでもなく、そうとしか読めないものなのだ。
『進撃の巨人』のアニメは45話とかまで観て、なんだか急展開でついていけなくなっている。奥さんにあらすじを説明しようとすると、あれ、ってことはエレンはああで、けっきょく王権ってなんだったんだっけ、とへどもどしてしまい、こんなにも整理整頓できていないまま作品紹介するというのも珍しい事態だった。現時点で何がわかっていて、何が隠されているのだかもうよくわからないでいるからすっきり説明できない。とりあえず観ていくほかないのだろう。しかし、すでに置いて行かれているとしたら、もう追いつけないままなのかもしれない。