移動中、昨日いただいた『先人は遅れてくる』のプルーフを読んでいた。「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する」シリーズ待望の最新作である。前半を読み終えた段階で、これは僕の構想している友田とん論の文脈からしてもマスターピースなのではないかと思う。
友田作品の鍵概念は「ない」であると睨んでいる。「ない」ことへの驚きが、あらゆる「ある」の不思議さを照射する。それも、あるはずのものがないのではない。なくてしかるべきものがないことにわざわざ驚く。そのためにナンセンスな問いを設定し、おおまじめに仮説を立て、堅実に検証を重ねる。このような驚きに向けた手続きこそが『『百年の孤独』を代わりに読む』から通底する作家としての核なのである。
「本から始まる」ナンセンスへの問いから始まる(H.A.Bノ冊子所収)
かつて僕はこのように書いたが、今作では「ない」ことへの態度がもう一段昇華された形で表現されているように感じた。これは「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する」シリーズが『まだ歩き出さない』『読めないガイドブック』という否定系のタイトルが続いたことからの安易な連想ではなく、もうすこしきちんとした思考の帰結であるのだが、ここは日記のような早書で書くには勿体ないことがらである。今回のタイトルは『先人は遅れてくる』だ。もはや「ある」とか「ない」とかではない境地。それが垣間見えた。友田とんの作家性が濃縮還元されている。シリーズとしては三巻なのだが、入門としてもじゅうぶん通用する。なんならこれから友田とん作品を読もうという人には、続きものの三巻なのですがこれから読むのがいいんじゃないでしょうか、とおすすめしたいほどである。そして、ただ入門なだけではない。二巻である『読めないガイドブック』は否定系の袋小路にいたってしまった感があった。つまり、もはや「ない」だけではどうしようもないところまで行ってしまった。その先がたしかに『先人は遅れてくる』にはあるのだ。
帯文にはこうある。
「これは?」
「お玉です!」
それはわかる。
しかし、今なぜ
ここでお玉なのか?
https://www.kawariniyomuhito.com/book-paris_tokyo3/
駅のホームで奥さんがお手洗いに向かった。そこでこの帯文の箇所に辿り着き、思わず涙がこみあげた。ここで泣くと寒風に晒されて気化する涙が温度やしっとりさを奪っていって顔がひりひりしてしまう。目にグッと力を込めて堪えていたらお手洗いから戻ってきた奥さんに、どしたのなんか険しい顔してんね、と問われた。
今日はリフォームの打ち合わせだった。まだローンが通るか未確定なのだがそもそもローンの申請にリフォームの見積もりがいる。ここまで来たらすっかり愛着が湧いてしまってどうあれダメだったら失望するというのがわかっているからかえって気楽に愛着を抱くことができる。お話ししていると俄にわくわくしてきて、楽しいなあ! という気持ちがようやくやってきた。
まだ慣れない駅前をそぞろ歩いて、あたらしく遊び場になるであろう街でトイレや風呂や自転車を物色し、ミスドでコーヒーをおかわりした。それから今の遊び場である街で餃子にビールだ。帯にあるお玉の箇所で俺は泣いたのだ、それはこういう話だった、中学生の友田少年はあるドキュメンタリー番組に魅入られた、それはその後の作家生活を、いやひとつの生そのものを方向づけるような出会いであった──という話を飲み屋で奥さんに熱弁しながら途中で涙ぐむ。大丈夫? と奥さんは赤ら顔の僕の背中をさする。大丈夫、最後まで語らせてくれ、代わりに読む人の創世記を、ふだん中瓶で満足なのにメニューに大瓶しかなくて一杯ぶん余計に飲んでいた僕はそう勇敢に返事をしてはいない。そう返事をしたといったら嘘になる。けれどもそのような気分で最後まで語り終えた。ふたりは、それは、いい話だね、としんみりした。それで帰った。飲んだらやめとくべきなのだが寒すぎたのでお風呂に入った。ZAZEN BOYS の新譜を聴きながらこの日記を書いている。