『プロジェクト・ヘイル・メアリー』のよかったところは、プロジェクトの只中にある者たちの退屈を描いていることだ。計画のためのミーティングや書類仕事もそうだし、実行中の待機時間もそうだ。非常時に対処するプロジェクトであっても、つねに一〇〇パーセントの緊張が続くわけではない。むしろ大きな状況に秩序だった解決をもたらそうとするとき、劇的な決断というのは所要時間だけでいえば一瞬のことで、ほとんどは落ち着かないまま待つことに耐える時間が占めていたりする。事務仕事の愉悦とは、混沌とした状況が整理整頓された情報へと変貌していくところにある。僕には常になにかを交通整理したいという欲望があり、ごちゃごちゃしたものを待ち構えている。そしてなにかこんがらがったものがやってくると大喜びでそれに取り掛かる。わけのわからないものがシンプルな手続きを経ることで着実に整序されていく面白さ! 道筋ができあがったあと、それをその通りに辿っていく時間は、そこまでわくわくするものではない。その通りであれ、という不安や焦りこそあれ、未知のものがじぶんを媒介にして扱えるものに変容するわくわくした気持ちはすでにない。けれども、そのような退屈な確認や点検なしには、どのようなプロジェクトも実現をみないのだ。ただ未知を探索していくわくわくだけを抽出して描くのであれば多くのSF 作品とかわりはないかもしれない。SFやミステリの喜びとは抽象の喜びであり、抽象概念の操作が複雑さや洗練の具合を楽しむものだが、アンディ・ウィアーの楽しさはむしろ具体に宿る緩慢さや冗漫さにこそある。もちろん読みものとして面白いようにかなり図式化されており描写は省略の巧みさが光るのだけれど、それでも読み口としては、倍速視聴やスキップを使えない日常生活の経営につきまとう待機時間のひりひりしながらもどこか間抜けな退屈さがふんだんに含まれているように感じるからすごい。
僕はおそらく頭をわちゃわちゃ散らかすために書いて、きれいに片付けるために本を読んでいる。その逆もたまにあるが、そのためには膨大な本を読む必要がある。読むというのは時間がかかる。最近は読書にかかる時間を測ってみることにしており、そうするとものによるが、ちくま学芸文庫なんかだと一冊読み通すのに八時間くらいかかる。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』も十時間くらいじゃなかったか、測ったくせに忘れるのだから意味がないが、まあそのくらいとして、すごいことだ。本を読まなければ映画が三、四本観れる! 『ハッピーアワー』でさえも二回観ることができるだけの時間、僕は一冊の本にかけている。あるいは、一日の労働時間にほぼ等しいだけの時間を。それだけの時間を読書の快楽に享楽するためにかかる値段は、映画一本か二本観るくらい、大きな劇場で芝居を観るのにかかる半分くらい、それっぽっちにすぎない。なんとまあ素晴らしい趣味だ。しかしこれが書くための資料整理という目的であればたいへんなことだ。立派なものを書こうとしたら読むべきものを読むだけで何年もかかる。じっさい立派なものというのはそれだけかかっているわけだ。しかし僕はそのように仕事として書くことに読むことを奉仕させるようなことにどうしても興味が持てない。僕はただ楽しく読み、楽しく書ければそれでいいのである。これこそ僕が素人くさいところなのだが、もうしょうがない。立派になるのは諦めた。楽しそうであることにいつだって自信を持っていたい。ええっと、なんの話だっけ?