2024.02.03

きのうから眼瞼ミオキニアが散発。あのピクピクするやつね。少なくとも僕の眼球は疲れている。自覚していないだけで、というか思い当たる節ばかりではあるのだがストレスも多いのかもしれない。他人事のように不調を考えている。『(見えない)欲望へ向けて』を面白く読んでいる。これはかなりいい本だ。ジェーン・オースティンを巡って繰り広げられる趣味のサークルの話がある。

リーヴィス『偉大な伝統』(一九四八年)は、イギリス小説の正典を限定することによって、文学を読む共同体への参入資格を厳密に設定しようとした。彼はしばしばエリート主義的な趣味を押しつけていると非難されるが、わずか数名の作家のみを真に偉大な作家として読書リストに並べることは、いっぽうで文化の民主化という側面ももつ。たかだか数十冊の書物を読めば、あなたも立派に文学共同体のメンバーになることができる──バンダナの巻き方を、ジーンズの着こなしを正しく学べば、性的な存在として共同体に参入できるのと同じように。共同体の構成はこうして、「生まれ」による選別と、後天的に身につけうる「趣味」による選別との駆け引きのなかから生まれる。

この文脈でのゲイ・コミュニティの共同体としての最大の特質は、誰もそこに生まれつかないことだろう。国家的、地域的、民族的な共同体の多くは、その構成員のかなりの部分が生まれたときからそこに属していることを想定しているのに対して、ゲイ・コミュニティはそうではないし、文学読者の、あるいはおたく =ポップカルチャー愛好者の共同体もそうではない。われわれにとってオースティンは、誰もそこに最初から帰属してはいない参加型コミュニティの構造を考えるための、正しい思考モデルなのである。実際にオースティンの世界では、階級によってあらかじめ選別の大部分がおこなわれているとしてもだ。

村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて──クィア批評との対話』 (ちくま学芸文庫)

趣味の世界とは、人が後天的に参入できるだけの参入可能性が開かれた世界である。趣味は、それ自体ある種の共同体を形成し、その内部に別様の規範や序列を生成する。しかしそのような趣味とは、どこかで個々人の欲望の直接的な充足を妨げもするものだ。自ら趣味の審判を任じる『エマ』の主人公が小説の語り手の全能を真似ることができるのは、自身を欲望とは距離をとった不能であることを受け容れることによってなのである。物語の結論に至ると、オースティン的大団円として、エマは没趣味的な結婚をすることで、共同体のコードを脱し、自身の欲望を享楽する契機をつかむ。しかし、エマの結論はもちろん唯一のよさではない。『エマ』の読者は必ずしも趣味を捨てて最大公約数的な欲望を取るという選択を支持しない。

インサイダーであることが信念の空洞化を生み出す共同体、これは文学読者の共同体以外のなにものでもないだろう。読者はエマがそうであるように全能であるとともに不能であり、小説の細部に拘泥するわれわれの姿は、姪の手紙を一字一句諳んじる暇なオールドミスに酷似している。センスにこだわり過ぎれば婚期を逃すという教えは、ファッションであれ文学であれ、いかなるセンスについても通用するのだろう。趣味の自己目的化は、かならずしも他者との関係を円滑にはしない。しかし文学を読む共同体においては、「趣味」への忠誠は絶対であり、オースティンならオースティンの愛好家や研究者の集団は、愛の対象を共有することで集団として成立する。その意味でこの集団は欲望を介した、性的なものでしかありえないが、この愛の共同体は、にもかかわらず物語が提出する(異性愛的)欲望の構造から平然と距離をとり、淡々と不能の愛を宣言することができる。またこの不能な中性性のゆえにこそ、クィア批評はそこにあからさまな性的欲望を再召喚することができる。

同書

インサイダーとして趣味が無効化される欲望の地点を、小説の読者はあくまで趣味的に吟味する。読者の快楽は、直接的な欲望への不能を経てある共同体においてのみ通用するセンスに耽溺することで獲得されるなにものかである。

公私共に進捗管理すべきプロジェクトが混んできたので、日中はDaynalist とNotion の模様替えに夢中だった。あっという間に日が暮れた。いまさらメモやログに相互リンクを張り巡らせることができることのうれしさを自覚できた気がする。夢中でタグづけを行い、参照しやすいように構造も大きく変えた。ノートというのは実際に活用する時間よりも、こうして模様替えして遊んでいる時間の方が圧倒的に多いのではないか。本当のところ、下手にいじらずひとつの原理で長く使うほうが生産性という意味ではいいような気がするが、僕はノートを生産するという手段の自己目的化というナンセンスを愛する。Daynalist に「Daily Loging」というブロックを作って、ひたすらログをとっていく。ラフな思いつきもぜんぶここに書いてしまう。たとえば途中で近いうちにやるべきことを思いついたらひとまず同じブロックに書き出してしまって、「#todo」のタグを付けておく。一日の終わりに「#todo」で横断検索して、まとめて「tasks」というブロックに放り込むという運用を発明して、これはかなりよさそう。Todoist のアプリは短期的なタスク管理に特化させて、〆切の明確ではない用事をDaynalistで管理するのだ。繰り返すがこれはかなりよさげ。イエーイ。ノートの取り方を変えると頭の容量が拡大したような愉快さがある。実際ずいぶん見通しがよくなって、やれる気がしてきた。

奥さんが外で食べてくるというので僕も飲みに行く。帰路の交差点で、家に来る男たちのことウーバーちんこって読んでんの、と朗らかに話す声を聞きながら日記を書き出す。駆け込んだ小便器の前には左からプレモル、桜色のスーパードライ、半分食べかけの釜焼きとろけるプリン、セブンのコーヒーレギュラーサイズ、ほろよいのジャスミンティーが並べられていて、甘いのが好きなんだね、と思う。帰ったらiPhoneからではできないNotion の変更を早く試してみたい。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。