『ラーメンと愛国』を読み終える。国家という共同体に帰属しているという国民意識は、かつては民族という局所的かつ土俗的な共同性によって成り立っていた。しかし冷戦後のグローバリゼーションによって、ナショナリズムを形成する共同性は土着の関係を離れ、むしろ文化的あるいは趣味的な結合に求められるようになっているのが現在のナショナリズムである。そのような大澤真幸の議論を援用することで、速水は戦後にでっちあげられたラーメンという「国民食」を、リアリティーショー的に捏造された偽史と戯れるナショナリズムの徴であると指摘する。それは旧来のナショナリズムのような露骨な排他性を持たず、なんなら多文化主義的でさえある。ラーメンから見る日本は、たしかに右傾化しているのだが、そこに確固たる排外主義を重ねることは案外難しいのではないか。そのような洞察がなされており、面白い。「日本の伝統」というフェイクを愛好するものたちの趣味的共同体に帰属意識を持つ者を現代のナショナリストと捉えることで、拓ける視界は小さくない。
駅前のラーメン屋さんに奥さんと行く。大山鶏の出汁が効いた上品な味で、奥さんは店構えからは想像できない、とびっくりしていた。この外観だとガツンとしてて食べたらしばらく気持ちが悪いタイプのラーメンが出てくるのかと思った。そういう奥さんはラーメンが得意ではない。僕からすれば外観からして透き通ったスープの丼が供されるのであろうなと容易に想像がつく看板で、店がその佇まいから発するメッセージを読み取るのにもある種の共同性への参画が必要であることを思う。ラーメンという趣味圏から距離のある奥さんは、この店の姿からスタンスや味の傾向を類推することができない。奥さんは郊外文化というか、ヤンキー的と雑に括ってもいいが、そのようなものへの読解力が顕著に低い。低いというより、そもそも存在しないのではないかとさえ思う。その様子を見るたびに、ほとんど文書化されない郊外のヤンキーたちの文化というものは、それはそれで独自の文脈を積み重ね、高度に洗練された特権的な者であることに思い至る。
電車に乗っていく。沿線に住んでいた時、出て行ったらもう二度とこの電車に乗りたくないと思うほど三田線が大嫌いだったのだが、いつのまにか電車が大きく綺麗になってすこし快適になっていた。旧居のある駅を過ぎ、西台で降りる。大通りに出ると集合住宅の一階から巨大な石の指が生え出ていて変だった。ロードサイドにばかでかいブックオフもある。公園も大きくて、子供たちがチャリで走っていく。風景がまるで田舎の国道沿いだ。23区内でさえこの様子だ。東京といっても、都市である空間は非常に小さいのだ。
建築士の方と一緒にデッドストックを救済して廉価で販売する建材屋に行って、あるもののなかでよさそうなものをピックアップする。これまでは調べれば調べるだけ可能性が膨らむのでむしろ選択の不可能ばかりが自覚されたが、ここには在庫があるものしかないので決定できるだけの有限性がある。床材のいくらかを決めて、すると俄かに他の部分についてもイメージが明確になってくる。まずは一部を偶発的に決めてしまうこと。そこから隣接する要素や全体の関連を考えてレイアウトしていけば、自ずと選択の幅は狭まってくる。なにもないところにはなんでもありうるから決断コストが高いが、ひとつでも決めてしまえばあとはほぼ必然めいてくる。はじめの一つの選択さえできてしまえば動き出す。その一つに意味を持たせすぎると重たいから、偶然に任せる。ある日、その場所にたまたまあったもの。
近くのファミレスで細かい打ち合わせ。こちらもどんどん確認事項や決定が具体的になってきて、これまでのようにやたらと夢を膨らませるフェーズが終わりつつあることを実感する。うれしい。なんでも欲望してくださいというのは僕は苦手だ。ある制限の中でどうやりくりしていくかを考える方が楽しいし、豊かな気さえする。ぜんぶ決めるなんてばからしい。帰りは車で送っていただく。早い。スーパーに寄りそびれたが腹ペコなのでキッチンに立つ。奥さんと無言の連携プレーで炊飯、主菜と副菜と汁物、あるいは洗い物の分担がなされ、てきぱきと組み上げられた夕食は二〇分足らずで揃えられ、わたしたちはとってもいいチームだね、と称え合った。
お風呂に入って、「MINIT」という一分で死ぬゲームを六〇回くらい死ぬまで遊んで、寝た。さいきん日記をその日のうちに読めないのつまんない。毎日の楽しみを取り上げられた気分だ、と奥さんが抗議するので、明日からは徐々に夜に書くリズムを立て直そうかと考える。