昨晩おやすみの直前に、マラサダ、と呟いたら、今朝は奥さんがマラサダを作ってくれた。感激。願うと叶う。うきうき食べて、カスタードクリームも追加で作って挟んでいただく。テンションと血糖値が爆上がる。
奥さんとの共作である2.5次元批評序論「2.5次元舞台を見る目をつくるために」の校正を戻す。奥さんの書いた註釈のいくつかにふたりで赤を入れ出したら止まらなくなり、あれこれと議論を重ねた結果、今のままではそうは読めないとなり昨日からがしがし書き直しを続けていた。直せば直すほどよくなり、それは奥さんの洞察や情念が結晶化していくようなものであり、じぶんの文章の推敲よりも真剣になる。おかげでどんどん高圧的な身振りにもなってしまい、文章の添削は演出家の権威性のようなものを引き寄せもする。ふだんは抑制しているモラハラ気質も顔を出しかけ、あまりいい感じではない。それでもぎりぎりのところで粘り、ほとんど音を上げながらも根気強くやり遂げて戻した。渾身の一作だ。へとへとである。
クールダウンに『ダンジョン飯』と『終末トレインどこへいく?』を観て、ごろごろ過ごす。夕方からは銭湯でひと風呂やってからミールスをきめる計画だった。
御徒町のコーヒー牛乳が格別な銭湯で疲れを癒し、外のベンチでご自慢の逸品を楽しみながら夜風に当たる。再校が早くも返ってきていて、ささっと赤字反映の状況を確認する。一点漏れがあったからあとで精査して戻そう。その流れでスマホを弄り続けていると『『百年の孤独』を代わりに読む』早川書房から文庫化の報。思わず軒先で「やば!!!!」とでかい声出ちゃった。『『百年の孤独』を代わりに読む』が文庫化されたあとの世界、住みたすぎる。この世、まだまだ捨てたものではない。小躍りしよう。
だいたいの本は読んだ人よりも読んだことにしたい人の方が多いのだから、『百年の孤独』の新潮文庫版よりも『『百年の孤独』を代わりに読む』のハヤカワ文庫版の方が売れに売れるという事態はとうぜん考えられる。そのようなナンセンスな状況になってこそ、この本のタイトルの批評性は十全に輝くはずなので是非そうなって欲しい。文庫化、マジで嬉しくてたまらない。友田とんは、早川書房から文庫が出るからすごくなるのではない。とっくにどのような出版社よりも特異で大きな存在であったこの作家が、ついに既存の大きめの流通に商品価値を認めさせるに至った。そのことが嬉しい。すでに有名性を獲得した作家のZINEが単行本や文庫になるというケースについてはすこし白けた気分で見ていて、だったら初めから商業で企画通せばよかったじゃんと思う。『代わりに読む』は、すでにある販路をたまたま保有しているだけの機関に承認を得るのではない形で流通から自前で開拓していった先駆的な作品のひとつであり、そのような本がとうとう既存の商圏にまで進出していくというのは気持ちのいい話だ。ない道を自作する、そしてそれは既存の大きな商売のアンチとしてではなく、ひたすら愚直な再発明としてある。そのようなスタイルのこれ以上ない体現になっている。
おいしい南インド料理を食べながら、他人の躍進を知ったとき、咄嗟に出るのが「いいなあ!」などの羨望ではなく、素直に「やったあ!」という喜びであることについて話し合った。本を作り始めたころにはむらむらと燃え上がっていた嫉妬というものが、いつしか縁遠いものになっている。これはいいことなのだろうか。やっかみに駆動されて動いていた部分がないではないはずだった。しかしそういえば僕はすでに欲しくてたまらないものというのがなくなっている気がするし、既存の権威からの承認とか、そういうものへの甘やかな幻想もいつのまにか萎えている。いまあるような楽しみをなるべく長持ちするものへと鍛えていくというようなことばかり考えていて、それはたしかにある意味では拡大のような方法をとるかもしれないけれど目的そのものではなく、それこそ周囲の近しい実作者と共にあたらしい界隈を耕していけたらそれがいいんじゃないかというほどには自分以外の誰かへの信頼の方へと傾いている。そもそも僕が商業誌に本格的にデビューしたのは対談記事によってであるし、この前のラジオもそうだが、あまり筆一本で勝負というような気概は弱い。なにか面白げなことをして、よいと思ったものについて夢中で語り倒したいという欲望のほうが強い。そういうことなのかもしれない。矢野利裕の『今日よりもマシな明日』を面白く読んでいて、僕はいとうせいこうみたいなのが理想であるなと考えていたところだった。
帰宅して、再校の確認をしていたら註の文言へのこだわりが再燃してしまい、再び喧々諤々だった。疲弊が見える。それでもしつこく食い下がる。真剣さと険悪さが似ているのは人間の瑕疵だ。なんとなくひりついた雰囲気が漂うなか、やることはやりきったという達成感は幽かであり、しかしたしかにありはした。めちゃくちゃ読まれて欲しいな、と思う。この原稿は届いて欲しい。宛先はいまだ曖昧なままであるが、これほどまでに気力を費やした文字列もこれまでになかった。それは奥さんとの共作であるというのが大きいだろう。僕が誰よりも聡明であると信じ込んでいるこの人の思考を、ごく一部であれ開陳すること。今回の文書作成のテーマはそれであったし、だからこそ過剰なまでの真剣さで細部にねちねちこだわって書き直しを重ねたのだ。そのようなこだわりがクオリティに直結するのかどうか疑わしい。ただ、直している間は格段によくなっているという手応えがあるから厄介だ。こねくりまわしすぎてわけわかんなくなっていないといいけれど、と祈るような気持ちで最後の修正依頼のメールを送る。