ネギが採れるようになったから大事にコツコツ溜め込んでいて、カビゴンに新しいカレーを食べさせるのを楽しみにしていたのだけど、朝にうっかり必要なハーブを使ってしまったばっかりにお昼に画面を開いてみると食材が足りない、メンバー編成を見直してまたしばらく待たなくてはいけないことがわかると思ったよりもしょげてしまい、かなり楽しみだったらしい。なんならそれだけを支えに午前中がんばったとも言えて、だからこれは正当なしょげだった。人というのは案外、このくらい些細でちゃちなことで一喜一憂できる。夢中になっている、熱狂している、そのようなふうでなくとも、なんだか気持ちがうきうきするな、というようなこと。そういう上向きをコツコツと積み重ねてごきげんを維持していく。そのような健気さは、人のことだと、かわいい、とも思う。そこに侮りのような気持ちがないではないかもしれない。自分の小ささやしょうもなさをこうして振り返る時、そこにあるのはほぼほぼ侮りなのであるが、それでも僅かばかりのかわいいのほうをこそ誇張して書き残しておきたいという欲望は、我が身かわいさというよりも、人類をなるべく愛おしみたいというような、それなりに切実な思いゆえではないだろうか。僕はそのように、懸命に世界を愛玩するような気分を養うためにこそ、したたかで揺るぎないのんきさを培うためにこそ作られたものを読みたいし観たいし聴きたいし触りたい。小説には、そのようなふてぶてしい泰然をこそ期待してしまっている。生活はどうしたって慌ただしいし、忙しいから。そうではない時間感覚、目先の狭苦しさからぽーんとひらけた抜けのよさ。深呼吸やストレッチ、散歩のようなものとして小説を読むから、今月の『新潮』のあれこれを読むにつけ、ままならなさや、息苦しさばかりが巧みに彫出されるさまに関心はしつつもしっかり落ち込んで、しょげしょげだ、でもだからこそ好きな人と穏やかに暮らしたいという決意に満たされ、帰宅するころにはつとめて明るく、夕食をふだんの倍ちかい時間をかけながら、咀嚼よりもむしろ饒舌に高瀬隼子「お小遣いの成果」を読んでしょんぼりしたこと、金原ひとみ「PUPA」も同じような子供のままならなさを描きつつも優しかったこと、町屋良平「体重」が変だったことを話してきかせた。呆れながらもちゃんと聞いてくれる目の前の人のことを改めて素敵だと思う。明日はきっと。もっといい人間でありたいと思いながら心に決める。明日こそきっと、カビゴンに新しいカレーを作ってやろう。