2024.07.31

いつからか、日中に蝉の鳴き声をきかなくなった。蚊も減っている気がする。あまりの暑さに昆虫の活動時間も太陽を避け始めている。この家に越していちばんの早起きで家を出て出勤。人の話す言葉が意味を結ばずにぼんやりとしてしまう。あるいは、ぼんやりしていて意味を捉え損なっている。汗と一緒に脳が溶け出している気がしてならない。職場ではコミュニケーションが成立しているかどうかさえ覚束ないほど人の話が入ってこないが、この前のTBSラジオのスタジオでおしゃべりしたときは、そこにいたどの発話も、お便りも、よくよく受信できた気でいたし、寝不足も相まって大胆に脱線する応答も、暴投ではあれどもまちがいではないと思い込むことができていた。これはこちらの感心の多寡の問題なのだろうか。教室でも職場でも、いつだって自分以外のすべての人間が賢く見えた。自分にだけわからないことを皆はわかっている。僕はわかっているフリをすることだけ上手くなって、つねに化けの皮が剥がれて、わかりきったことさえわかっていないということが露呈することを恐れている。とっくにバレていて、泳がされているだけなのかもしれなかった。

けれどもふと疑わしく思うこともある。もしかして、この人たちもわかっていないのではないか? 不安なほど文意の取れないメールは、しばしば海外の思想書の晦渋さを凌駕するほど難しく、軽妙なリズムで交わされる議論は、だいたいルールのわからないスポーツのように意味不明で、それらを読み解けない僕は、誰も彼もなんて優秀なんだろうと思うのだが、騙されているのかもしれない。かれらはほんとうにばかなのかもしれない。というか、ものごとを言葉に変換し、伝達するという能力は、そこまで普遍的なものではないのかもしれない。言葉の運用において、馬鹿ではない人というのはごく一部の変人なのではないか。言語化可能な形でものごとをわかっている人、頭のいい人、優秀な人なんていうのは、ほんの一握りで、残りの多くはただそのフリをしているだけなんじゃないか。みなバレないように必死で、牽制ばかりうまくなり、つっこまれないためにツッコミのポジションをとり、正直にぼんやりしているものをボケに追い込む。そういうふうに、ばかが必死に賢ぶるゲームが繰り広げられているだけなのではないか。あいつらはわかってもいないことを、てきとうにくっちゃべっているだけでその音にほとんど意味なんかないんじゃないか。だから真面目に読み解こうとしたって無駄で、そこにじっさい存在しているのは、非言語のコミュニケーションでしかない。自分のあまりの頭の働かなさに、そのような無茶な責任転嫁を行いたくなってくる。しかし、おそらく人口の大半が読み書き能力にかんしてはばかであるというのは間違いのないことだ。インターネットによって活字の装いで露わになった、そのへんのひとたちの文章や、何か文字情報に触れた時の反応というのは、想像以上にだめだめであるという事実は、それこそ間違いを指摘されたくない、自分こそがちゃんとやれているのだという断言や冷笑に化粧され、その去勢は健気だが、読み書き能力の欠如はバレバレで、それを眺めるこちらの気恥ずかしさと同じような感覚を、よくわからないまま相槌をうち、よくわからないまま振る舞う労働者としての僕を見る多くの人が感じているのだろう。

大半の人は読まないし、書かない。言語の世界観からすれば想像を絶するようなばかたちが、世間というものを回している。言葉の側から見れば、それらは雰囲気とかそういうもののようにしか知覚できないのだが、しかしじっさいつつがなく日々の営為を成立させているのは、言葉なんて迂遠なものに頼らずに、あっけらかんとただなされる判断と行為によってではないか。理屈ではものごとは動かない。そのようなリアリティが労働の現場にはある。そしてそこで繰り広げられる言語活動のようでそうではないなにかを前にして、僕は白痴のように失語に陥るほかなかった。日々の生活の中で、無能なのはあきらかに僕のほうなのだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。