朝ゴミ出しをして二度寝。寝ても寝ても寝た気がしないので損をした気がする。寝ないでも動き回れる人が信じられない。窓から郵便受けを見ると、群像、と見える。今回は郵便受けに入る厚みだったようだ。しかし主張がすごい。暑さが和らぐ夕方に買い物に出るし、その時でいいかなと思ったが、群像でぱんぱんだと他のが入らなくなるか、入ってもぎゅうぎゅうで傷むのではないかと思い至りえいやと外に出ると、すでに三誌きていて、『文學界』がひしゃげていた。『すばる』はきのう届いていたから、今月のものは全部きた。
もずく酢とツナ缶、茗荷を合わせて素麺を食べて、『群像』の山本浩貴と保坂和志の対談を読む。小説よりも、小説についての言説や思考、小説を制作する際に起こっていることを語る言葉の方が面白く感じる。小説とはそうして語られ、夢見られるなにかすごいものの、不完全な再現というか、どうしたって偽物にしかなりようのないものである気さえする。『群像』は今月の創作は四作で、どれも短く、すぐに読めてしまう。
夕方から雷がすごい。外に出ると稲光、という感じの迫力で、こりゃ平伏したくもなると納得する。屋外用のゴミ箱を検討し、夕食の買い出しに出る。食パンにつけるずんだバターがおいしそうでつい買う。ねりごまが見つけられなくてめそめそしていたら奥さんが来てくれる。泣きそうになる。昼間、ジャンプでヒロアカを一気読みする奥さんの隣で僕も読み返していた。僕は耐えきれなくてジャンプの購読を始めたけれど、奥さんは単行本派を貫いた。でももう完結したから、と誘って、最後まで読んだ。僕はべちょべちょに泣いて、それで、弱っている時に誰かが来てくれるというのに敏感になっていた。ねりごまは見つかった。
『すばる』の掲載作がかなり嫌いな話で、めそめそしてたまらないので慌てて奥さんを呼びつけ、しがみつき、本棚から『ちょっと踊ったりすぐかけだす』を引っ張り出して二篇ほど音読する。そうして元気を取り戻す。なぜ小説となると、家族の破綻や息苦しさばかり書くのか。トルストイは幸福な家庭は似たり寄ったりだが、不幸なそれらはそれぞれに違った相貌をもつだとか言ったそうだが、馬鹿なんだと思う。不幸こそのっぺりと紋切り型で、わざわざ何人ものプロの書き手が何度も何度も何度も似たような話を生産し続けても仕方がないと思う。家庭の不幸を延々と書き連ねること、それはむしろ家族制度というものに対する、あるいは、不幸というものに対する個人の無力感を募らせるばかりで、個人の自由やのんきさを回復するのに役立っていないとさえ思う。仲良しで、にぎやかで、ごきげんな家庭、それはべつに戸籍上どうだっていい、個人と個人が、あるいは二人以上の複数が、互いに気遣いながら、言葉を尽くし、関係をサボらないでいることのほうがどれだけすごいことか。幸福というのもたしかによくわからないが、その日その日を仲良く過ごせる、そのワンダーの連続をこそ読みたいよと思ってしまうのは、しかし僕自身がそのような欠乏感や、息苦しさから遠く隔たっている現状があるからだろうか。他人の不幸より、幸不幸にのみこまれない、抜けのよさを獲得したり維持したりする話の方が、ずっと面白いというのは、しかしいつだってずっと感じていることである。フィクショナルな不幸に浄化される気持ち、みたいなの、だいぶわからないでいる。それは読み手としては欠点でもあるだろうが、譲りたくない一線でもある。不幸とは、一面的な不自由であり、それはだいたい同じ顔をしている。おのおのの顔が見えてくるのは、元気や余裕がある時だけなのだ。そのようなおのおのの顔を曇らせ、殺す不自由を憎むのはいい。そのような不自由のおぞましさを描くのもたしかに必要だろう。しかしそればかりでは、どんな顔で笑い、怒り、のんびりしても構わないのだと、そんなことすら忘れてしまいそうになるではないか。勝手に機嫌よくいさせろ、そのために小説とかはあるんだろ、と極端なことを考える。