朝は寝坊して、文芸誌の創作を片っ端から読んでいく休日。今月は創作は量として薄めで、昨晩と今日とであらかた読めてしまった。それはそれで物足りない。好みのものもあまりなくて、さてどうしようかと思う。『新潮』掲載の國分功一郎の「天皇への敗北──戦後日本の民主主義における憲法の役割について」が、なにかと混線しがちな民主主義と立憲主義の差異と交差点を平明に整理してみせるもので、元法学徒としてつよく頷いた。このくらいは、僕が自分で言えなければだめだった、とも思う。わかっていたはずのことを、クリアに言語化されるのを見ると、まるで前々から自分も考えていたことだと得意になりそうにもなるが、ほんとうはこのような状態というのは常に受け身の姿勢でいる無能の証であって、こんなにも鮮やかでシンプルな理路にまで整えられるものを、うじゃうじゃと言葉にできないままでいたことを恥じたり、悔やんだり、もっとちゃんとしなきゃと焦ったりしなければ嘘だ。民主主義と立憲主義、その二項の緊張関係を折衝するものとして、天皇が前景化してきたのが、この数十年の日本の政治状況であったという見取り図に膝を打つ。天皇が護憲装置としてはたらいていることを示すことで、ここまですっきりとした構図を描き出せるのかと思う。同じく『新潮』の綿野恵太「ひろゆきに論破されてみた件」が示唆する、「ハック」の感覚を準備する社会の閉塞感、およびそのような状況の中で「賢く」選択される視野狭窄の有効性にげんなりする気持ちを、すこしだけ晴らすような大局観が國分の論にはあった。そういう意味で今月は『新潮』がよくて、しかし小説の話をしないでこればかり取り上げても仕方がないような、いっそこちらをメインに据えて、これらの論考にまったく釣り合っていない小説のちんけさを書くのもいいかもしれない。ここまではなるべく小説の外に出ないように気をつけてきたが、もうそれではどうにもならないという気分もまた盛り上がってきている。
奥さんは夕方から出かけていて、だから家で一人で黙々と読んでいた。夕飯は昨日の残りの油淋鶏、おかかとネギの甘辛煮を卵かけご飯に、つくりおきのポテサラと白和え、スピードスターブックフェスのお土産にもらったハートランド。ハートランドは二階に持ち込んで『キュア(A Cure for Wellness)』を観る。デイン・デハーンとミア・ゴスが主演で、スイスの山奥の古城跡に建てられた隔離病棟を巡る奇譚なのだが、プロットがほとんど目玉おやじのいない『ゲゲゲの謎』で、アメリカ映画でこのような因習や忌まわしい歴史、近親相姦や人体実験といった湿った話をやり切れるとは、と面白い。男同士の関係が優先されたりしないぶん、ミア・ゴスが添え物にとどまらない主体性があり、『ゲゲゲの謎』よりも好みだった。
夜中に奥さんが帰ってきて、この家で留守番するのははじめてだった──なくはないがこれまでは僕も出かけてしまっていた──ためなのか、やたら興奮してしまっておしゃべりが止まらず、夜更かし。