マスクを忘れて気がついたが、街というのはこんなに臭うのだな。汗のにおいや、室外機の吐き出す熱風、アスファルトから立ちのぼる甘さ。住宅街を歩くときや料理屋で外すほかはつけ続けているから、外にはこんなにもおいしそうじゃない臭いがあったことに久しぶりに出くわしたような心地だ。
ぼんやりと労働しながら、どうにも身が入らんな、と思う。引っ越しが落ち着けばなんだかんだで本腰を入れるだろうと思っていたが、じっさいはますます腑抜けた。満ち足りていて、ここから足そうとも引こうとも思えない。この無気力はいうならば、さびしさかもしれなかった。上京してしばらく、ひとり狭苦しい部屋で人肌恋しさにめそめそしていたころは寂寥感があったが、好きな人と生計をやりくりし衣食住足りている今、欠乏の欠落に感じるさびしさは、寂寞といえそうだった。わけもない罪悪感から、虚しさへ。なんとか埋めなければまずい、という切迫はなく、ただ、しみじみとさびしい。このさびしさは知っている。これは実家にいたころ、子供心に甘受していたものと同じだ。足りていないとき、持っていないものを求めていれば気は紛れた。そのような不足を感じていないとき、あるのは、すべていつかは失われるという予感ばかりだ。
子供のころから、両親の庇護の外に出るのがたまらなく怖かった。そのくせ一人で遠くまで歩いて行ったり、宿をとったりして過ごすのは嫌いではなく、中学の頃にはじめて敢行した単身旅行の心細さも悪いものではなく、ひとりぽっちでしんしんとしているのは好きだった。そのような孤独癖は、なんだかんだで実家に帰ろうと思えばいつでも帰れるという目算があったからこそ、安心して享楽していられたのだとも思う。すぐに帰っていけると思うからこそ、いつかすべてを失って、このようなわびしさに身を浸すのだと考えて清々しくなれた。就職して以来、いよいよ自活していかなければと思い込み、それ以来僕はさびしくなかった。というか、親しんできた寂寞を失い、身を切るような寂寥だけが残った。そのようなさびしさはごめんだった。奥さんと暮らしだし、ようやく寂寥とも切れた、と感じられたとき、もう自分にどのようなさびしさも残っていないことに気がついた。けれども、ずっと屈託を抱いてきた家についてのこと──というのはもっぱら住宅事情という意味でだけの家である──が決着したいまここにきて、ずいぶん久しぶりに寂寞のほうがかえってきた感じがある。充足していなければ、寂寞はやってこない。少なくとも僕にとってはそのようだった。
だから、いまはぼんやりとしてしまうし、何もかも虚しいし、寝そべってしまったら最後、立ち上がれそうにもないのだが、いま直面しているこのうそ寒さは、あんがい好ましいものとして感じられている。それはそれとして、働かなくてはいけないのだが、動かない。困ったね。