2024.08.29

台風10号は今週後半にかけて列島を横断するかもしれないと予報されていたけれど、昨晩から明日にかけてじりじりと九州に留まっており、だからといって関東も影響がないわけではなく、頭はぼんやりするし、目の奥がじくじく痛む。風もつよく吹いているし、これを書いている夜にはものすごい勢いの雨音が遠く聞こえる。この家は二重窓なので外の音が遠いのだけれど、そのぶん雨樋をつよく打つ震えが寝室に伝わってくる。

ほんらい進めるはずだった原稿も、ゲラも、うまく頭が働かず断念。どうでもいい映画をスクリーンに投影しながら、FGO や「ディスガイア2」を遊んでいた。それから音楽をかけ、目を瞑ってじっとしていた。本は読むか、とひらいた堀江敏幸訳『土左日記』は、ぼやけた頭を醒ますような凄さだ。まず諸言があるのだが、こんな原文は存在しないのだ。漢詩の精髄を「やまとうた」へと変換する作業を行なった紀貫之は、やがて漢語によって著される公文書はもちろん、やまとことばでうたわれる詩歌によっても捉えきれない領野に至る。それこそ、散文の要請される場である。

この引用は省略した部分こそ凄い。そこでは具体的なあるうたをめぐる環境が取り上げられる。『花鳥の使』での尼ヶ崎彬の論の記憶を手がかりに、これを読んでいる。あるいは、戯曲とは詩歌の成立する場を設計するための指示書であるというようなことを──ずいぶん不正確な記憶であるはずだが──言っていたはずのいぬのせなか座の山本浩貴の文章を思い出しながら読んでいる。散文とは、言葉が言葉として立つ、詩歌の場をあつらえるために配置される文字列である。堀江の貫之はそれを看取する。漢詩を和歌へ、そしてやまとことばの散文へ。「私」から「わたし」への劇的な移行を要請する非常に個人的な事情というのを、本書の「諸言」として構築してみせたこの現代語訳者は、かの「をとこもすなる日記といふものを」の一文を、じつに鮮やかに読み替えてみせる。その読み替え=翻訳は、漢語からやまとことば、詩歌から散文へと移行せざるをえなかった、紀貫之の問題意識を現代の問題系においてふたたび蘇らせる試みにほかならない。

新型コロナウイルスの感染拡大以降、僕の日記は明確に日記としての性格を意識的に強め、当初の散文としての試行錯誤という面は弱め続けてきた。それはもちろん意図があり、意識的に調整した変容ではあるのだけれど、批評や評論ではなく日記でなければならない意味というのを久しぶりに考え直している。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。