きのうの日記は『土左日記』に触発されて真夜中まで書いていたのだけれど、ほんとうだったら日付が変わるころにはベッドにいるべきだった。今朝は午前早くの会議のために早起きの必要があったからだ。在宅もできるようになって、早起きの用事はなるべく家で済ませるように工夫しているけれど、どうしても出るべき時というのもあり、労働に限らず楽しみな用事でも、翌日の早起きというのは前日の夜から緊張を強いてくるから苦手だ。まだ来ていない一日の予定が、今日この時を圧迫し、生理感覚に反した振る舞いを強いてくることへの苛立ち。そのような怒りによって早起きの前日こそ夜更かししてしまうところがある。困るのはこの自分であるはずなのだが、今朝の目覚めはよく、きのうあんなにも靄がかかったようだったのが不思議なほど冴えており、電車のなかでは『メイドインアビス』の新刊を読み、んなぁ。『土左日記』に移り、座れてからは原稿チェック、ぶじ納品。風も雨もひかえめ。ニュースでは博多や熊本の駅前も落ち着いており、台風からの距離とじっさいの風雨の相関の複雑さを実感する。遠くても降るし、近くても降らない。もっとわかりやすくあればいいのに、と思わなくもない。
頭がぼんやりしていると、これほど労働に身が入らないのはよくないのではないか、と思ってしまうのだが、今日のように冴え冴えとしていると、よし、まったく働きたくないな!と元気いっぱい怠けることができる。しかし、好調はながく持続しない。午後からは猛烈な眠気になかば意識を失う場面もあった。現在地を、雨雲がすごい勢いで通過していく。どじゃっと降っては収まり、またどじゃっとくる。東京アメッシュを凝視してしまう。こう見ると、家のある千葉と労働の場である東京都ではずいぶん天気が異なる。東京を縦断する雨雲の大半は千葉の鼻先をかすめながらむしろ埼玉や茨木へと抜けていく。東京の天気が半分くらい他人事になってきている。ざっくり四十キロ弱の隔たり。これは名古屋市内の実家から香嵐渓までの距離にちかい、などといっても自分のほかには伝わりようのない感慨だが、日記なので構わない。伝わるとか伝わらないとか、いよいよどうでもよくなってきた。わかるからなに?
帰宅してお風呂に入ってごはんを食べていると、あ、きょうラピュタだ!と気がついて、ちょうど始まるところだった。あっという間に画面に釘付けになって、CMのあいだにそわそわ食器を洗って、始まるよ!と奥さんが大きな声で呼んでくれるとすぐにテレビの前にすっ飛んでいく。こういう視聴、ずいぶん久しぶりだな。じっさい実家にいる時でないとなかっただろうから、十五年以上ぶりであろう。三回に分けて食器を洗い終えて、それからはCMが入るたびにトイレやドライヤーを済ませていく。ラピュタ、いちばん好き。手前と奥、上と下、左右と空間のレイヤーの軸が三個あって、それぞれが交差していくような贅沢な構図がいくつもあって、気持ちがいい。ロングショットでとらえられた、きれいな背景にちっちゃく動く人物の体をみると大喜びしてしまう。飛ぶ、よろめく、落ちる、崩れる。『君たちはどう生きるか』でも執拗に反復される重力の表現は、このころからずっと繰り返されている。近年の作品らの水っぽい感じも好きだけれど、ラピュタの、岩石や木の根の乾いた質感と、風に膨らませられる布の柔らかさとの対比のほうが格好いいと思う。