はじめて亀有で降りる。香取神社のなかに食い込む形の変な立地のケーキ屋でお茶して、本格的な空腹を感じたので亀有メンチでごはん。メンチ、とってもおいしかった。油の切れがよくて、ぜんぜんしつこくない。お孫さんだろうか。店を手伝っている子供の姿に、炭鉱のエレベータの操作を任せられた瞬間のパズーの誇らしそうな顔を思い出してぐっときてしまう。
リリオホールで右往沙翁劇場。前回は年末の有楽町で観て、完成度は高かったけれど席があまりよくなくて、今回はセンブロで非常にいい席だったのでよく見えたのだけれど、ネタはまだ発展途上という感じ。これからは亀有で見て、ネタが気に入ったら有楽町にも行くというのがいいかもしれない。ネタとネタの間の場面転換、下手で着替えと化粧をするその所作に見惚れる。なんてことのない姿なのだが、たとえばズボンを履く、それだけでも七〇を超えた肉体の迫力を感じる。片足でブレずに立てる、というのは、板の上に立つためのひとつの指標なような気がする。この衣替えが安心してみられるうちは、まだまだ次回公演を楽しみに待てるような気がする。独立前の公演も見てみたかったな、とは思わなくもない。五、六年前のインタビュー記事が好きでたまに読み返す。そのたびにNHKスペシャルが見たくなる。
中村を演じるにあたり、イッセー尾形が参考にしたのが中村の顔写真と、中村が銀行にかけたクレームの電話音声だった。
「苦情の電話なのに、いつまでも終わらない道案内をしているかのような、ダラダラした話し方をする人だなと。その音に、自分の声を乗せていきました。口をすぼめるような表情をつくったのは、写真の印象と、論理的にしゃべる人間だと想像したからです」
「声と顔、この二つが決まれば、だいたい人間をつくることができるんです。声のトーンやニュアンスには、その人の世界が込められているんですね。人となり、何に意識を向けているか、何を伝えようとしているか、そのときの心情などが全部声に出るんです」
「矛盾している方が面白い」――怪優・イッセー尾形の人間観 https://news.yahoo.co.jp/feature/1151/
同インタビューでは「人間を捉えるのは、“近似値”でいいと思っています。核ではなく、近似値」と続けていて、徹底的に型、つくりへの注目と制作を言っている。この演技観に非常に惹かれる。いつだか誰かが、たぶんTwitterで、イッセー尾形は怖いと言っていて、それは声が怖いのだという。あの声は、どこから出ているのかわからないという。わからなくはない。じっさい、凄い声だと思う。それこそ、響くのに、深みがない。腹の底から出ている感じもしないし、かといって喉を痛めそうな感じも微塵もない。そういうフィジカルな意味でもそうなのだけれど、それ以上に、その発声の根拠になっているものの所在が知れない。それこそ、イッセー尾形という個人の「外」から響くような声にきこえる。
だから、イッセー尾形の一人芝居をみるとき、笑えるかよりも、おそろしいかどうかを期待してしまう。今回のネタは怖さは控えめで、でもあの怖さは公演を重ねていくうちに醸成されるものなのかも知れず、考えれば考えるほど有楽町に確かめに行きたくなるような気もしてきた。
終演後、ダイソーやニトリで買い物。気圧の影響で体がぽかぽかして今にも寝てしまいそうだった。帰りにお寿司を食べて、明日に備えて家の整理整頓。配信が今月いっぱいということで、ぎりぎりまで『青春鉄道』の舞台映像を見る。配信が終わってしまうというので観始めたので、未練がましく思うのはすこし変ではあるのだけれど、すごくちょうどよく雑に流しておけるいい塩梅の芝居で、またいつか配信が復活してくれたらいいな、と思う。