2024.09.04

さいきんの労働意欲のなさはさすがにやばく、やる気がないとかの前に「考える」回路自体が停止している感じがある。手を動かす以前の、何のためにどう手を動かすかがそもそもわからない。やるためのものの考え方が不在というか、課題やタスクを前にしても「だからなんなの?」というところから頭が動かない。

端的に興味がなさすぎるのかもしれないが、興味がないからこそシステマチックに処理したいわけで、システムにするためには骨子を把握する必要があり、しかしそのような目的や効果そして手段の抽象化のための思考は、あるていどの関心がなければうまく始まらない……というような負の循環にある気がする。

ある職能への適性を、好きか嫌いがで分ける論には警戒があるのだけれど、関心の寄せ方がわからない物事についてここまで何も考えられないものなのかと思い知るにつけ、少なくとも好きであれ嫌いであれ、そのことについて考えてしまうという性向の偏りはあることだなと思う。それを興味と呼ぶならば、好悪問わず興味がなければたしかにどうにもならないような気もする。こと頭脳労働においては。

自分があるていど親しんだ人文系の思考法を無理やり適用するならば、そんな課題があるプロジェクトは中断したほうがよい、みたいになってしまう。それはそれで健全だし、だからこその思考停止なのだろうが、組織人としてはいかにプロジェクトを進めるかを考えるべきで、前提をひっくり返してばかりではいられない。

僕はおそらくあるシステムの存立要件を問うのは好きなのだが、それらのシステムを自明のものとしてその上でなにかを考えるというのが苦手なのだと思う。

抽象化された議論には嬉々として乗るし、個別具体的な思考が充分に抽象化されていたと思われていた枠組みの正当性を崩すようなのも大好きだが、既存の体系の中での具体的なタスクをこつこつと片付けていくようなものにまったく興味が湧かない。

賃労働とは誰かの考えたシステムのもと誰かのタスクを代行することで、だからつまらなくて当然だしつまらなくてよいのだが、そのタスクが「考える」になった途端、僕はポンコツになるとわかってきた。現場で手足として稼働していたころは、よく考えていたのだけどな。それはやはり頼まれてもない自分ごとだったから考えられていただけなのかもしれない。

誰かの代わりに考えるというのは難しい。

この難しさとは、一見して退屈であるというところにある。だいたいの難しいものは第一印象としてぱっとしないもので、取り組むうちに面白くなってくる。本を読むとか、人の話を聞くというのは、簡単なところから徐々に積み上げてきた経験があるから、この退屈に見える困難な地道さの魅力がよくわかっている気になれる。

労働は、もとからしたくないことだから、難しいほうが面白いじゃん!みたいな気持ちもとくに湧かず、ただただ面倒くさい。面倒くせえなあとボヤきながらも目の前のタスクを処理していればよかったうちはまだよくて、不毛な実行のあいだ頭を休ませていることもできた。今はこの状態に戻すために頭を使うべき局面にある。

でも頭使いたくないなあ。それやると、本読むのと同じ部分を酷使するから、退勤後に本が読めなくなるんだもん。そのくせ本と違って楽しくなさそうだし。というか、わかった、労働で頭を酷使することの嫌さは、好みでもなく出来のいいわけでもない本を渋々読まされているかのような感じが近い。こんなものよりあれやそれを読みたい、みたいな気分が盛り上がって仕方ない。いま文芸時評をやってるのもあって、これ以上読みたくないもの読みたくないよ、という状態なのかもしれない。ただ、そうなってくると、今度は文芸時評と同じように、労働にもちゃんと取り組めば面白の余地があるかもしれないな、と思えてくる。

ほんとかよ。無理やりポジティブにしようとしてない?

このように、やる気が出ないなということについて三〇分ほど考え、ひとまずの結論としてやる気が出ないなとなった。

やり始めたらやる気が出てくるなんてことは知っていて、だからやる気の出し方を知りたいわけではない。嫌々始めてうっかり出てしまうやる気のいかがわしさが嫌なのだ。やれば出るようなものを、なかば強制的にしかし見かけ上はあくまで自発的であるかのように供出させられる仕組みへの嫌悪があって、わりあい強めに労働にやる気なんか出したくないという信念が自分にあることに気がついてくる。こうなると、やるのはなかなか骨折りだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。