寝相がすごく、奥さんの足許で枕をかき抱きながら丸まっていたようだ。体がばきばきだった。それで起きる気になれず、のろのろ起床。ゆっくり朝食をとり、奥さんとおしゃべり。ようやく出勤。正午からずっと会議が続き、お昼を食べる隙がなさそうだった。途中でトイレに行きたくなって、しかし言い出せもせず、小学校の授業中の空気を思い出す。もうじき終わりそうな気配を感じたからこそ、ここで中断させずにさっさと仕舞おうと思うのだが、小さな膀胱を痛めつけていた当時の僕は、いったいなにを心配して声をあげられなかったのだろうか。恥ずかしいとか遠慮とかではなく、単純にあとこのくらいなら我慢できる、みたいなことだった気もする。この程度なら耐えられる、という選択が、あまりできなくなった。こらえ性が弱まっている。だいたい、思わず音を上げてしまうよりもずっと手前の段階でギブアップしてしまう。それが理性的な判断というものだと思っている。もともとあまり我慢ができない性質ではあったとは思うが、ここまでになったのは、奥さんによって、そのように育てられたからのように感じている。結婚してから、僕はずいぶん易きに流れている。そして、それをよしとしている。嫌なことを無理するのも、しんどいのを我慢するのも、変だ。そのような感性に染まりきっている。鍛え上げられたなまけもの。ちょっとやそっとじゃ頑張らない。そのくせ、当の奥さんはたまに努力家だったりするから、そのような勤勉な姿を見ると、騙されて置いていかれたような気分になる。ここまでなまけさせたのはあなたなのだから、ちゃんと責任を取ってほしい、そのような他責に胡坐をかいて、自分のありようを反省することもしない。そうやって一日ごろごろ過ごしていたいかというと、そうでもないようなのが厄介だ。嫌でないことについては僕はいくらでも無茶をしてしまう。無気力と過活動のあいだでうろちょろ落ち着かないまま、十年近くを過ごしている。
ふと、小学生の頃になぜだか一冊だけ買った少年ジャンプに載っていた読切のことを思い出した。あれはずいぶん面白かったような記憶がある。アヴリル・ラヴィーンみたいな美人のヴァンパイアと血の盟約を交わしてしまった寡黙なヴァンパイアハンターの話だったような気がする。峰倉かずやっぽい骨の細そうな体系の男女が背中合わせで立っていて、背の高い男のほうが大きな剣を片手で持ち上げている表紙は色がついていたはずだ。剣の柄を握る手がごつごつと大きくてエロかった。あと目の周りが黒い女はそのころからなんだかすごく好きだった。いわゆる厨二病的なセンスが台詞まわしにもほとばしっていて、なにより気の強い女性が力持ちの男を従えているというのが好みだった。たしかヴァンパイア退治の戦闘中、男がぼろぼろに追いつめられると女がキスをして強化するのだ。自らの血を経口摂取で送り込むのだったか。とにかくそんな理屈だ。姉御肌でふだんは男を尻に敷いている女がいざというときはキスで補佐する、とはいえ明確な主従の関係は揺るがないという設定に、小学生の僕はずいぶんそそられた。強い女に従えられて、ひたすら酷使されたいというような嗜好はこのときすでにあったわけだ。いま思えばfate の魔力供給じゃん、とも思う。あれ、また読めないのかな。センターカラー、一九九五年から二〇〇六年くらいまでのあいだに掲載された、男女バディもの。これだけの条件があれば見つかるだろうと週刊少年ジャンプ読み切りデータ表で調べてみて、「WITCH CRAZE」という作品だとわかった。吸血鬼じゃなくて魔女だった。作者の遠藤達哉の名前で検索すると『SPY × FAMILY』が出てきた。
いつだったか奥さんが、Twitterで仕入れたこんな話をきかせてくれた。『SPY × FAMILY』の作者は、これまで自分の好みに忠実な濃いのを描いていて、コアなファンはつくものの広く売れはせず、『SPY × FAMILY』は売れるために割り切って描いているらしい。そのような作品で売れることに、往年のファンの思いは複雑だ。だから作者がいま描いているキャラクターには何の愛着もない、ただの記号として扱っているのだとあるインタビューで公言してくれたことで、なんとなく安心するような人たちがいるのだと。そのときは、へえ、と思ったくらいだったが、まさか幼い僕がすごく好きだったあの読み切りの人だったとは。いまになって、『SPY × FAMILY』で売れたことに複雑な思いを抱くコアなファンの気持ちになっている。「WITCH CRAZE」掲載が二〇〇一年。僕が十歳のころ。ずいぶん長い雌伏ではないか。それはたしかに、自分の好みを通すよりも、産業として割り切る選択をするのに充分な時間だったのだと思う。しかし割り切りさえすればここまでしっかり売れるというのもすごいことだ。