半袖だと寒いだろうなと思いながら、カーディガンが見つからなかったので半袖で出た。寒かった。
朝はちゃんと食べたのだけれど、やたらとお腹が空いて、午前のうちにランチに出て、夕方には蕎麦を食べて、帰り道でも何かを食べる気がする。お腹が空いていると、ガスっぽくなっておならが止まらない。そうすると胃腸の調子が悪いのだか、空腹なのだか、わからなくなる。今晩は肉じゃがから作り変えられたカレーのはずで、三杯くらいおかわりするだろうから、お腹の元気は気になるところだった。
帰りに本屋に寄って青土社の新刊を二冊買う。『2.5次元学入門』と『オタク文化とフェミニズム』。前者は帰りの電車であらかた読み終える。標葉隆馬の論が面白かった。ファンとしての記述が多い論集の中で、部外者としての立場から飄々と楽しむ態度が際立つ。学生の「ほら自転車がみえるじゃないですか」という発言を「これは非常に含蓄に富んだ発言に思われた」と受ける出だしからよい。ラトゥールのアクターネットワーク論を参照しつつ、ファンダムの面白さとは、ネットワークを織りなすアクターとしての主体の感覚および共同体への参与の実感にあるのではないかと示唆する。観客と制作側との相互作用という意味では目新しさのない議論だけれど、そこにどんな理論を代入するかでこうも印象が変わるのかと思う。いい加減『テヅカ・イズ・デッド』のキャラ/キャラクター論は使い古されていると感じる。
標葉はつづけて、「神話」などに抱く個人の心的表象が、公共的表象に転換され流布することで巷で共有される構造やモチーフが形成される機序にせまったダン・スペルベル『表象は感染する』を引きつつ、こう述べる。
スペルベルの視点によって見るならば、例えば、各個人の中にある欲望(性癖に刺さる)は、キャラクターの造形や設定といった公的表象によって刺激され、あるいは時に呼び起される。そうして公的表象によって内燃した心的表象は、こんどは布教活動(まさしく伝達者[communicator]としての出番である)や、コミュニティ内での告解といった形で更なる公的表象として流布され、また新たな心的表象の喚起を生む。その感染拡大過程のなかで、表象を読み解く文法、そしてそのような嗜好を発露すること自体が許容されるという想像が共有されていく。
つまり、心的表象が公共的表象に転換する過程には「解釈」が介在する。そしてその「解釈」が加えられていくことで、それぞれの公的表象と心的表象の往還において、各種の表象は次第に多くの要素自体の「差分」とその組み合わせの多様性による「差分」が発生していく(あたかもウィルスが変異を繰り返し、多様な性格の変異株を生み出すかの如く)。
しかしながら、感染がより拡大する表象であるためには、ある程度一定の定式で「解釈」されなければならない。二・五次元をよむ「文法」と規範は、さらには「推す」という行為が指し示す嗜好性の方針自体が、そのアクターネットワークの消費の在り方と複雑性を縮減し、そのような解釈幅を一定程度の範囲にとどめることで、その波及効果を最大化することに貢献するものであり、また関係者間での意思疎通の基盤、さらには共同体維持の基盤となっていると解釈できそうである。
標葉隆馬「二・五次元空間における表象の感染」『2.5次元学入門』(青土社) p.179
「各個人の中にある欲望(性癖に刺さる)」というところで笑った。そして「推す」という行為を、際限なく複雑化し、複数化し、拡大していくネットワークのなかでの振る舞いの可能性を縮減する戦術と解釈するところで唸った。面白いなあ。膨大な情報の中から摂取するものを、「推し」というフィルタリングで縮減する。そのように圧縮された高密度な心的表象が表に出されるとき、ときおりそれが別の誰かへと感染していって、いつしかあらたな公的表象になることもある。
カレーは二杯食べた。