午前中に髪を切りに行く。鋏を入れてもらうあいだ、文芸誌を読んでいた。眼鏡は外されるので裸眼だとかなり顔に近づけないと読めない。たぶんいくらか切られた髪が頁のあいまに挟まった。僕はそれを見ることができない。コンタクトにしようかと思う。いつだか、二度とコンタクトはしないと決めて眼鏡で遊ぶようになったけれど、やはり眼鏡は不便なところもある。そもそも、視力が悪いというのはそれだけで不便だ。ほかの力と同じく、あるならあったほうがいい。アシスタントの人が、おそらく専門学校出たばかりのような若さで、一生懸命齧り付くように本を読んでいるようすを見ていたのだろう。お勉強ですか?とシャンプー中に訊いてくれる。仕事というか、趣味というか、と口籠もると、えっ仕事が趣味みたいなことですかと尋ねるので、ムキになっていやいやまさかそれはちがう、だいたいの仕事は嫌いだ、あれは半ば趣味みたいな仕事で、本を読んで何か書くというのをやってるのだとへどもど応えるのだが、へーっそんな仕事があるんですねえ、と朗らかに受けてみせながら、なにか面白い本を教えてくださいと屈託ない。時間稼ぎのために、ふだんはどんなものを読むんですかと尋ねると、高校時代の思い出を話してくれる。
『スイッチを押すとき』がとても面白くて、授業中に教科書に隠して読んでいたら先生に見つかったこと、でもそれが漫画とかでなく小説だったので、お前みたいなのでも本を読むんだなあとかえって感心されたこと、僕はずいぶん失礼な先公だと思うが黙っておいた、あのころは学校の図書室に通って、この見た目で意外じゃないですか? それで、山田悠介は全シリーズ読んで、あっこれはネタバレになっちゃうんですけど、山田悠介の小説はコナンみたいにぜんぶ繋がっていて、黒幕が一緒なんですよ、すごくないですか? アシスタントは頭皮をほぐしながら『スイッチを押すとき』のあらすじを語って聞かせてくれる。閉鎖空間のなかで何不自由ない暮らしをしている人々がいて、自殺できるスイッチを持たされているんです、で、そんなひとたちが次々に死を選ぶのを映像ごしにチェックするアルバイトに来るのが主人公なんです。そこに映っている人たちは、物質的には満ち足りているんですけど、愛だけは与えられないんです、なんか、それがすごいリアルっていうか。そう話すのを聞きながら、実家に暮らしていた十代のころ、なににも自分で得たものであるという実感も実績もなく、生活のみっともない具体性の手触りも薄く、あらゆるものごとを観念的に捉えていた時期特有のリアリティというか、固有名よりも抽象化された思考実験のようなものの方にこそ手応えを感じていたころのことを思い出していた。アシスタントのこの人のいう「リアル」とは、たぶんそういうものだ。就職してしばらくは、休憩時間とか、三分でも時間ができたら本を読んでいたんですけど、気が付けば、TikTokとか眺めてたらあっという間に終わっちゃう感じで、漫画は、絵が合わないと読めなくなっちゃうので、本がいいんですけど、映画は結構好きで、少女漫画の実写版とか、Netflixで観たりもします、でも、展開がわかっちゃうとつまんないんですよね、もっと意外性が欲しいっていうか、しかも、こっちとくっつくんだなってわかってても、くっつかない側の方がいいやつだったりしません?
僕がふだん楽しく読み、ああだこうだと考えているものを、多分この人は求めていない。ふだん僕が親しんでいるような本のまわりにいる人たちが、自分たちとは関係のない人として一線を引く、その線の向こう側にいる人たちのためのものだと決めつける、そういうものを屈託なく楽しめる人だ。そして、その屈託のなさで、面白い本を求めている。僕はあれこれと読んでいるくせに、この人に勧められる本が咄嗟に思いつかない。なにが、本を読んで何かを書く仕事だ。なにも紹介できやしないじゃないか。本読む楽しさを人に伝えられやしないじゃないかと愕然とし、苦し紛れに伊坂幸太郎や恩田陸を勧めつつ、何かが違うと思っていた。いや、だいたいこれでよかったのかもしれない。あまり気の利いたことを言おうとして、すかしたり外したりするよりは、自分の十代のころの経験をもとに話すほかなかったのかもしれない。しかし。
何を薦めればよかったんだろう。北千住のカレー屋で奥さんにそう零すと、星新一とかじゃない? と返されて、たしかに長さとしても勧めやすいなと思う。本への好ましさは持っていて、でもそこまでたくさんは読んでいなくて、久しぶりに何か読んでみたいというようなとき、気負わず読み通せるだけの軽さがあって、その気になればその次へと繋がるような一冊、それをいかにもなスノビズムですかしたりせず、でもちょっと外して選ぶ。そういうのができるようでありたい。読めば読むほど何も勧められなくなるなんていやらしい。楽しさを増やすような本の読み方をしたいものだった。さいきんの僕はどうにも鹿爪らしくてうざったい。
新宿でCasual Meets Shakespeare「MACBETH SC」。劇場の客電が暗くて、傾斜のきつい客席で足を踏み外して転ぶ音がいくつも聞こえた。SCはシリアスとコメディで、きょうはシリアス。ずいぶん覚束なくて、あとで初日と知り得心した。段取りや台詞に気を取られていて、演技になっていない部分が多々あった。劇場の性質だろうか。音響も照明も安っぽく、そもそも劇伴がかなりダサかった。劇伴が鳴っているシーンはだからけっこう苦痛で、音楽なしでやってくれないかなと思う。カーテンコール時に、すぐ隣のキャットウォークから松崎史也が登場して舞台上の役者に声をかけるところがいちばん盛り上がったかもしれない。ロイヤルホストでパフェを食べて帰る。