朝から悪い天気。町屋良平「小説の死後──(にも書かれる散文のために)──」序文を読んで、これは楽しみな仕事。今年の「週刊読書人」で、門外漢として文芸時評を担いながら感じていた息苦しさは、このような仕事によってひらかれるであろう見晴らしの不在だったのかもしれない。〈二〇〇〇年から二〇一五年までに書かれた小説〉には、〈メッセージ性やジャーナリズム的要素に変換しづらく、再言語化にかなう「伝わりやすさ」〉が不在であったという。そのような不在に透かしみえる、言葉にならないものを文字を用いて表現表現しようとするものとしての小説(観)が失調しているのが現状である。僕は〈メッセージ性やジャーナリズム的要素に変換〉が容易な、敷衍のしやすい小説はとてもつまらないと思う。「何を書くか」よりも「どう書くか」を強く優先させるという読みの性向がある。だからこそ、前者に傾く小説にまったく心躍らない。これはこれで問題で、小説は両輪で読まないときちんと楽しめないものではある。しかし、「何を書くか」に要請される「どう書くか」よりも、「どう書くか」によって事後的に立ち上がってしまう「何を書くか」にこそ関心があるなあとやっぱり考えてしまう。目的のための手段なんて労働に過ぎない。技術のほうが内容をでっちあげるようなありかたのほうが、制作として健全なふうに思う。無目的な手段からしか生まれないなにか。そういうものが楽しいんじゃないか。
『文学+』四号所収の矢野利裕「サブカル私小説系から当事者性へ──現代文学の大衆性をめぐって」は、町屋が射程に据える二〇〇〇年代のまさにこの時期、サブカルチャーの門外漢たちの文筆によってなされた試行錯誤──書き手と書かれたものとがべったりと癒着した「私小説」こそが、現代の当事者性文学に連なる流れの上流に位置づけられるのだとする。両者を対照しながら検討してみると楽しいだろう。矢野は、個人の生の声にこそ賭けている。それは、きのうの美容院のアシスタントにも「なんだかリアル」なものとして響きうる、いわゆる大衆性のようなものへの信頼の態度でもあるだろう。それはそれでたしかに重要なことではありうる。
読んでいて楽しければなんでもいいのが小説だ。そもそも小説というのは、研究するほどの根気もなく、詩を書くほどのセンスもない、音楽もできなければ絵も描けない、そういう横着者のばかがやるものだ。そして批評も、研究するには迂闊で横着なばかのすることだ。もともと頭がよくない人のものなのだから、時代の徒花となるようなもののほうが素直なのかもしれない。けれども、僕はあきらかにそうではない小説の側に与していくだろうとも思う。そこにあるのは、賢いわけでもなく、かといって大勢に馴染むこともできず、伝わるかも保証できない怪文書を謎の強度をもつまでに練り上げてしまうような、そういう大馬鹿者へのわくわくとした信である。信頼できそうだから信じるといいうのではなく、到底信じられなさそうなことをしでかしてくれそうだという信である。この世には、まだ驚きがありうるということを信じるための寄る辺として小説がある。市場への流通可能性で容易に測りうる代物など、驚きから程遠くてつまらない。
夕方には台風もできた。労働もみちみちで、頭は働かず、だからこそ夜は楽しく、手巻き寿司パーティーだ!