奥さんと僕とのSlack にはIFTTT で気象庁警戒アラートの台風情報が連携されていて、夜更けに台風二号ができたことが知れた。台風は、よくない。
仕事中も久しぶりにぼへぼへとして、しかしぼへぼへとする余裕が出てきたということでもあるだろう。空いた時間に自己を啓発しようと思って『今日から始める情報設計』と『思考の整理学』を読んだ。自己が啓発された。情報も設計されたし、思考も整理された。後者は確か一時期東大生協での売り上げがどうとかで売り出していて、母校の生協で僕はいや他校にあやかってどうすんだよと思ったことを覚えている。大学生協というのは学割が効いて、本が割り引かれるというのは今考えればおそろしいことだ。あのときもっと高い本を買っておけばよかったとは思わない。あの頃はバイトもギリギリまで切り詰めて、最低限のお金の他は持たなかった、というよりも、お金なんて後で稼げるのだから、いまはどれだけ暇を余らせることができるかが大切だ、という気持ちでいたし、それが間違っていたとはいまも思わない。しかし暇があるからこそそこそこ稼いでたくさん本を買えばよかったのに、と鬱陶しい助言をしてやりたくもなるが、そんなのはすでに社会化された考えで、とにかく自分の時間は自分のものなのだという強欲の正しさにケチをつけられるほどの強度を持たない。就職してお金は思った程は稼げなかったがそもそも最初の数年なんて会社の稼ぎをかすめているわけで自分で稼いでいるわけでもない。とにかく自由になるお金はできて、それは月末になるといつも五円単位で計算しながらスーパーのワゴンセールをめがけにいくとか、親戚の送ってくれたカップ麺を半月連続で食べ続けるとか、そういうことをしなくなっただけでも十分お金はあった。やはり時間と体力はごっそり持っていかれて、不足している時間や体力をお金で買い戻しているような気持ちになって虚しかったのをよく覚えている。
いまとなっては本を値段も見ずに買うようになった。買った分だけ読むから学生の頃より本を読んでいる。僕は学生時代に芝居を作っていたが、同期が皆就職するか演劇を続けるかで悩んでいるのが馬鹿らしくて仕方がなかった。両方取ればいい。収入源を確保してその上でやりたいことをやればいいのになぜすぐ二者択一にするのだろうか。でかいの一発かましたいわけでもなく、ただごきげんに制作を続けていこうと思えば、安定した収入源を別に持つのはいい選択肢のひとつだし、そもそも就職するくらいで売り渡せちゃう程度の魂なんて安すぎるでしょ、という強気もあった。結局僕はこの二年くらい芝居を打てていないがそれでもまあ続けていない気はしないし、それとは別に本を作ったりものを書いたりと楽しくやっている。生きている限り生活は続くのだし、就職やら結婚やら疫病やら大きめの変容があったとしても結局は毎日をやっていくしかないのは変わらないし、そんな毎日をやりくりする個人というものも残念ながらそう大きくは変われないものだ。
今日はもうめんどくさいな、と思いながらも結局こうして書いているし、書いていればなにかしらは出てくるものだった。