今日はもう朝から具合が悪くて、正午近くまでぐずぐずしていたが、週末からの喉の痛みがいっこうに恢復する感じがないので念のため耳鼻咽喉科に行きたかった。午前の診療にギリギリ間に合うというタイミングでようやく家を出る。思ったより日差しが強くてのぼせる。高架のところで水が頭に落ちてくる。喉が渇いてふらふらする。耳鼻咽喉科は記憶していたよりもずっと遠かった。ついて見てもらうもやはり特になんの異常もなく、腫れも膿もないそれを確かめるために鼻の穴から喉まで管を突っ込まれて二〇〇〇円以上取られた。なんかもうぜんぶ馬鹿らしいなという気持ちで帰宅して昼を食べているとお腹が痛くなって中座。水みたいなものが止まるところを知らず、便座の上で心がはっきりと折れた。それできょうはもう布団にいますと宣言して、だらだらと寝そべっていた。
寝そべりながらこの三日くらい夢中で読んでいる『ナナとカオル』および『ナナとカオル Black Label』を読み耽っていた。これはいい漫画だなあと感じ入る。もともとはせっかくDMM なんだしなんかエロいの読みたい、くらいの気持ちだったけれど、これはめちゃくちゃ真っ当に恋愛もので、ラブコメで、というのは他者への敬意とそれを実践する知性に満ちていて、読みながらずっと爽やかな気持ちだったし、ドキドキハラハラともどかしい二人の行く末を見守る気持ちはさいきんだと『ハイキュー!』などのスポーツものに通じるものさえあった。他者の身体への畏怖と、それでも一線を踏み越えたいという勇気。言語化の限界への明晰な自覚と、言語以外のコミュニケーションの可能性への試行。なによりも自分以上に他者に配慮するという態度の尊さ。しかも他者への配慮の精度が高まれば高まるだけ絵面はエロくなる。背徳的なのは表層だけで、描かれている交歓については至極まっとうに一〇代の初心な機微を描いている傑作で、非常に満足して読み終える。いまは三作目が連載中らしく、いますぐ読みたいけれどただでさえもどかしい展開なのに、続きが気になるまま待たされるのは苦痛だから連載が終わるまでは二作目の余韻で満足したい気もする。なんだろう、もっと他人に優しくなろうという気持ちになった。いい感じだ、もっと自己を啓発しよう、と『闇の自己啓発』に手を出して、闇というのはある種の人間にとってはっきりと救済になりうるというか、公明正大な光の元ではうまく息ができないものたちから暗がりを奪わないでくれ、という切実さは必ずありふれていて、そうしたものを開示する場というのはどんな形であれ外野が干渉して取り上げていいものではない。秘すれば花、ということばの原義とは違うのかも知れないが、最大公約数的な光の元では醜悪な生殖器としか見えなくなるような、暗がりにあってこそ美しい花というのはある。
ここまで書いていて、Twitter にかつての暗がり的な掲示板仕草を持ち込むことは、露出狂の振る舞いでしかないのだなあと思い至るが、『闇の自己啓発』はnote が初出とのことで、note にはまだ闇はあるだろうか。短文よりも長文の方が暗がりを作りやすいというのは確かだろう。ある程度の根気や慎重さや読解力がなければ、暗がりのなかに分け入っていくことはできないのだから。