2021.04.28(2-p.53)

週末のおしゃべりがもうオムラヂとして他人事のように聴けるのだからすごい。最近はもう自分の日記も録音もその日のうちに忘れてしまうようで、次の日にはかなり素直な気持ちで、というのは自分のパフォーマンスを点検するとかでなく、単純にパフォーマンスを楽しむような気持ちで楽しめてしまうから、すこし怖いくらいでもある。そうか、そういうこと考えながら書いてるんだあ、と面白いし、奥さんが書かれる客体であることをしれっと主体として語ってのけるところも最高だった。しかしたぶん僕たちはしゃべることに一生懸命で、いくつもマスクさんの面白い一言を拾い損ねていることにも気がつく。そんなときも、ああ、しまった失敗したなあという反省はなく、素朴にもったいない! と思う。もはや数日前に青木さん夫妻とおしゃべりしている自分といまこうしてオムラヂを聴く自分とのあいだにはほとんど連続性はないようにすら思える。しかしやはり連続はしているのであって、楽しく話した記憶はある。これはより一層顕著なのはオムラヂでも言及のあるON READING でのトークも楽しかった感覚だけがあって何を話したか覚えていないし、聴き返しても今の実感とはもちろん違っていて、へえと思うところもあるがピンと来ないところもある。半年で僕はここまで変わっているし、だからこそ僕は人の一貫性というものをまったく信用していない。でもなんか声は僕に似てるし、たぶん僕が話してるんだと思う。いま酔っ払っているのもこうした他人事の感覚に拍車をかけているような気がする。目が見てるから僕は僕の所在を目の近辺に想定しているが、そういう意味では内臓や足の裏はずっと他者だ。足の裏に自己があるとはあまり思えない。ないしは足の裏で考えるというのも難しそうだ。内臓の方がまだある程度は想像がつくが、内臓に顕著だがこの表皮だって僕の想定する自己としての僕だけのものでなく、常在菌やウイルスや諸細胞といった異質な他者の集合でもある。こうなってくると僕が僕だと認識している僕とはいったいどこにあるのかと訝しく思うが、そういった他者のネットワークそのものが僕なのだろう。ジャガー-人間や機械-人間を想定するまでもなく、僕のこの体はすでに微生物や食品添加物や抗生物質の混合物であり、キメラである。そういう集合として自己というものを捉えると、毎日天気や食事や電車の混み具合でほとんど連続性を信じられないほどに変容を被るのもそんなに不思議なことでない。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。