日本の百億人が『ブリーディング・エッジ』を購い読み耽っているなか、僕は『重力の虹』に溺れている。小説をがっつり読むのは久しぶりで、読んでいる最中のリアクションがあまりに塩なので奥さんは本気で悲しみ怒った。リビングでその本を読んではいけない、ということになった。なのでリビングでは『コンヴァージェンス・カルチャー』を、寝室でピンチョンを読む二重生活となっている。ピンチョンは、ちんちんの話好きそうだし、確かに不倫相手だと間違われても仕方がないかもしれないし、珍しく僕の読書が奥さんとの関係に緊張をもたらすというのも、この国の霊感の変調、超国家的な陰謀の結果かもしれない。ピンチョンを読んでいると無性に『ミッドナイト・ゴスペル』を再見したくなる。めっちゃ頭のいい溶けた脳味噌みたいなのに触れてたい。
さいきん、というか日記を本の形にまとめてその本がたしかな手応えを返してくれるようになったころから、自分の日記のありかたを捉えあぐねているところがある。プルーストと違ってマルクスのページは平気で進まないでいるし、だったら惰性でページ数を付すのをやめてふつうに日付だけでいいような気もする。しかし僕はマルクスをこうして日記の日付としてだけでも毎日意識しているからこそ寅さんをみたりSATC に興味を持ったり──どこも配信してなさそうだから諦めかけているが──しているわけで、進んでいなくてもやはり読んでいるのだとは思う。しかしプルーストが拡散ならば、マルクスはどうしても意識が社会に収斂convergenceしていきがちで、日々の日記をつねに社会に接続していくというのはこうして毎日公開している時点で十分なのかもしれないがやはりどこか無理があって、なんというか脱線を重ねることとどこか相性が悪い。社会との接続を志向するならイシューを絞るべきだが、日記にイシューはない。マルクスを読んでいるときそこに生活は確かにあるが、しかし生活の悲惨にばかり目を向けていては、なんだかんだでいつの時代もそこには生活があったということを忘れがちだ。たとえば疫病が蔓延しているにもかかわらず、市井の人命など意にも介さない超国家的な利権団体による運動会が強行されようとしているこの時代は、後から振り返ればさぞ暗い時代だと思われるだろうが、そんな日々にも人はふだんは真顔でめしを食い、惚けた顔で排泄をし、平気な顔をして眠っているのだ。たとえば戦時下のひとびとだって、爆弾を待たずとも食べたり寝たり笑ったりしなきゃ生きていかれないのだから食べたり寝たり笑っているはずで、悲惨な状況ではつねに惨めな気持ちでいるというわけではないことを、悲惨な状況下の僕たちはもう知っているはずなのだ。
僕は常々小島信夫のように書きたいが、先日晩年の武者小路実篤のようでもありたいのだと思い至った。誰しもボケの境地のようなものに達したいから文章を書いているのだと僕はなかば本気で思っている。若者はそれで無理して酒を煽ったりしてボケようとするが、素面でボケている人の境地にはやはりぜんぜん届かない。シラフでどこまでボケていられるか、それも必死に鋭敏でいようとして、その鋭さがかえってなまくら加減を暴露しながらも、それでも鋭いとかなまくらだとかいうありふれた判断の余地がないような凄みのある文章。僕はそういうものを書いてみたい。