ザリガニほどは臭くないよ。
先日友達と電話越しに話していた奥さんは亀を飼うことについてそんなことを言っていたのが聞こえた。その亀の水槽がザリガニなみに臭う。水は昨日換えたばかりだった。それなのに水の腐ったような、微かに青い匂いもしつつ有機体が淀んでグズグズになっていくときに発するぬるい臭いが部屋に充満する。もともと亀は冬に静かで温暖になればなるほど元気に食べ排泄し体を大きくしていくものだから、今の時期どんどん食べてどんどん出すのはいい。それでもこんなには臭くなかった。一日で水がまんべんなくほのかに茶色く見えるくらいにまで景気良くうんちをすることはなかった。奥さんはさいきん便秘気味だったのが水を換えたのでいっぺんに出たのかねえ、と言っていたが僕は昨日エサをやるときにうっかりエサを出し過ぎてしまって、それはたぶん二日分くらいあったのだが面倒に思って放っておいたのがいけなかったかなと密かに申し訳なく思っていた。見守っている間に全部食べていたように見えたが、食べ過ぎて下痢になってしまったのかもしれないし、食べきれず食べこぼしが水を汚して臭いのかもしれない。とにかく水をまた換える。
先に水槽と書いたがトーニョはもう大きいので四隅に車輪のついた衣装ケースを水槽がわりに使っていて、特に車輪は活躍しないが、ポンプで水を組み上げてベランダに放水し、バケツを流しに持っていってそこに貯めた水を流し込んでいく。こびりついた汚れは歯ブラシやスポンジでこそげとっていくのだが、そのあいだ亀をベランダに放しておくこともある。亀の回収が面倒なのと、凶暴な爪で引っ掻かれると痛いのでだいたいは亀を中に入れたままそうやって水を換えていく。バケツからの水はだから二回はすすぎ用で、そのままポンプで組み上げられてベランダに流れていく。それでようやくポンプを引き上げてバケツを三往復ぶんの水を水槽に溜める。午前中にこれをやったのだが昼食を──これは人間用のだ。亀は一日一食にしている──済ませる頃にはまた臭う。見ると水も汚れている。これはと思いまたバケツとポンプで水を換えながら、今度は亀自身も歯ブラシの、奥歯の隙間なんかを磨く用の細かいやつで甲羅の継ぎ目をなぞるように擦っていく。亀の甲羅は脱皮というのだろうか、とにかく真新しい間はあかるい茶色で、鼈甲はウミガメだがやっぱり鼈甲のようだが、古くなるとくすんでいったり、緑色の苔がこびりつく。そういう汚れを取ってやろうとこうしてたまに洗うと亀は心底不愉快そうにフスッフスッと息を吐く。そんなことを「文學界」のエセーにも書いた。これからは亀を洗うたびに「文學界」のことを思い出すのだろう。意識しないうちにうちの亀は文学と通じてしまっているというか、そういうものへの回路の一つというか、そういうものそのもののようになっているところがある。洗っていくとどうも甲羅の生え替わりというかの時期のようで、しかしまだ剥離するには早く、緑色の汚れは剥離の時を待つ層と、その下の鼈甲色した表面とのあいだに溜まってしまっているようだった。僕はそれに細い歯ブラシで甲羅の継ぎ目の間を一生懸命擦っているうちに古い層がボロっと剥がれてしまったときに気が付いた。こういうものは自然に剥がれていくのを待ったほうが良かったのだろうかと思うが、そこは亀は嫌な顔をしているようには見えない。亀の甲羅は大きくなるにつれて古い層が押し出されるように剥がれていくから、まだ下の層の育ちが十分でないかもしれない。でも見る限りもう立派に甲羅になっていて、剥がれたら剥がれたで大丈夫そうではある。多少の不安を感じながらもそのまま歯ブラシで四枚ほど甲羅の古層を剥がした。亀は持ち上げると暴れるが裏がえしにするようにして持つと大人しくなる。それで腹の方の黄色い部分も丁寧に拭きあげてやると、それまで手足と共に引っ込めていたくせに口元に近づくのを見計らってにゅっと首を伸ばして噛みつこうとしてくるのだからしぶとい。水槽の中に戻して背中側というのか、いつも見えている側を再度念入りに磨いていく。亀の甲羅の一枚一枚はよく見ると年輪のようになっている。等高線をそのまま書いてあるそれぞれの山の頂点には最小の多方形があって、これがトーニョの赤ん坊の頃の甲羅の大きさだった。これまでの自然剥離の場合は年輪の等高線がよく見えたが、今回の脱皮は具合が違うようで、自然に剥がれた部分も含めてつるっとした質感で、これまであったような古い層との連続性が見られない。それこそが僕を不安にさせたのだと思う。今回の甲羅の剥離はこれまでと何かが違う、というような。けれども普段から真新しい甲羅というのはつるっとしていて、段々と次の層が準備されるに従ってこれまでの層の痕跡が浮き上がってくるような推移を辿っていたのをろくに見てこなかっただけの可能性もまだある。とにかく二度目の水換えと徹底した甲羅の洗いで臭いはだいぶおさまった。
夕方からまた雨が降り出すらしい。奥さんと同じような時刻に自律神経が狂い出して、もう無理だ! と立ち上がって、お互いに別の方向を向くように腕を組んで、らんたったー、と歌いながらぐるぐる回った。それぞれの方向に一コーラス分ずつ回って、腕を解いて見つめ合い、お互いに、こいつほんとうにダメそうだな、と確認をしてからソファにへたり込み、しばらくすると各々の持ち場へと戻っていった。