昨日は奥さんに僕がいかに保坂和志の世界観というか人間観というか創作観というかそういうものを受け継いでいるのかというような話をしていた。世界の方が人間の構築するものよりもずっと大きくて、人間は個々の体で世界を感受するのだから、社会だとか科学だとかそういう人間の構築物によって立つような三人称の記述は、じつは全然客観的な真実なんかではなくって、むしろ世界そのものをとりあえずそのままの形で感受する一人称のほうがずっと広いんだ、というような話だった。それを聞いた奥さんに、そのわりにはあなたの日記は社会だとかそういう大きい主語を持ってきがちよね、と言われてそれはそうなのだった。僕はなんだかんだで構築性のほうについてしまう。
奥さんはまた構築性の外部があるというスタンスは反証不可能だからずるいとも言った。それもその通りで、そもそも二人で話していたことは、相手を説得するだとかディベートで勝利するだとかいう発想での話ではないから、この論の立て方は無敵でずるいと言われても、そもそも勝負ではないとしか言えないのだけれど、それでも奥さんの感じるずるさもわかる。奥さんの聡明さは非常に近代的な構築物としての聡明さであり、そういう聡明さがずるさを感知する。別のゲームを作ったな、というような。けれども本当に奥さんは一つのゲームだけで考えているのだろうか。そんなわけはない。つど新しく生起する世界と個の、その動きや生起をそのつど喚起するための小説というような制作観や読書観というのは、むしろ奥さんの方が鋭敏に感知しているような気もする。僕は映画を観ても音楽を聴いても小説を読んでもアニメを観ても、だいたいは構造的にそれを読んでしまう。それは構築物としての読解であり、社会という構築物との関係性としてのコンテクストの読解であるという意味で、まったく生起そのものや世界との出会いそのものを感受できていないというか、後から振り返ることのできる鳥瞰的な把握ばかりにかまけてその時その時の喜びに没入できていないのだとも言えるだろう。奥さんは作品を構造的に読解するということができないとよく自分では嘆くが、それは音楽を音楽が鳴っているあいだにだけ浴び、映画をその投影されている時間にだけ生き、小説を読んでいる時間にだけ立ち上がるものとして読むということではないのか。奥さんは作品との間に一回一回そのつど生起する関係を感受できるからこそ、作品との関係を社会化させるための言葉を持つ必要がない。僕は油断するとすぐに社会化しようと構造を読み取ってしまうからこそ、しつこくただ享楽することを喜ぶのではないか。
保坂和志は安易に社会問題を書くよりも、近所の植生や猫を書く方がずっと広いんだと言い続けているのが偉いのだと僕は奥さんに言った。そうであれば僕もこの日記をアリバイのように社会への問題意識で書くのではなく、気圧の変化による自律神経の変調や、亀や、そういうことに注力するべきではないのか。漫然と手癖で書く日記はつまらないと最近あなたはそればっかり言っているが、ほんとうにきちんと面倒なことに取り組みたいというならば、誰もがすぐに了解可能な、流通しやすい社会的イシューや語彙を使って書くのではなく、目の前のことをいちいち、なんて凡庸で紋切り型なんだろうと絶望しながらも、それでもいちいち書こうとする、そういう試行錯誤から逃げてはいけないのではないか、個人的なことは社会的なことなのは当たり前で、むしろ社会をも内包したこの世界そのものを感受できるとしたらそれは個人ひとりひとりなのだということのほうが重要で、この日記を書く個人を社会なんかよりもずっと広くて大きいものであることを、個人の生活の描写によって示し続けることこそが、巡り巡って個人の人権を云々する以上に、個人というものを踏み躙ることがいかに醜悪で許されてはいけないことなのかを表せるのではないか。ほら、さっそく主語が大きくなっていくが、社会を飲み込むような個人──それはもちろん自我なんていうものよりもずっと大きい──に踏ん張って、わかりやすい社会性へと遊離しないように書いていくというのが、当面の僕の試みになりそうだった。
雨の降る前の感じがとても苦手で、特に頭の右側が痛むというかモワモワする。手と汗だけですべての発汗量をまかなおうとするかのように末端からだけ汗をかく。夜遅くまで働いていた奥さんを待ちながら根を詰めて本を読み過ぎたようで脳はもうへとへと。あなたはもうだめだね、表情筋と感情がちぐはぐだもの、そう奥さんは、僕が笑うべきでないタイミングで微笑み、どうでもいい時に神妙な面持ちでいることを指摘した。